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泉幸甫建築研究所 建築家  泉幸甫
2-奈良の歩き方

初詣に奈良の東大寺によく出かける。何故わざわざと思われるかもしれないが、あえて理由を付けるとすると、正月だし、小さい社寺より日本で一番デカいお寺の方が気宇壮大、ご利益も大きいのでは、といったところか。

そして大仏殿だけでなく、大仏殿の周辺を反時計回りにぐるりと巡るのが恒例のコース。静かでひんやりとした空気の中にある古代、中世の建物を見て回ると正月らしく身も心も引き締まる。

まず、東大寺に普通に南側より入り、煎餅を欲しがる鹿の間を抜けて行くと、南大門に至る。


東大寺南大門

南大門は鎌倉初期に、日本の木構造に大変革を起こした重源(ちょうげん)による建物。睨みつける阿吽(あうん)の金剛力士像の間から建物を見上げると、柱を縦横に何重にも抜いた通(とおし)貫(ぬき)と言う木材で固めてある。


南大門の天井を見上げる

大地震が来てもこの建物は壊れそうにない。たとえ倒れたにしても、そのままコロンと横になるだけだろう。この通貫を使った建築を大仏様(よう)と言い、中国から日本へ大規模木造建築を可能にする構法をもたらしたのが重源だ。これまでの日本の歴史の中でNo.1の建築家は誰かと問われれば、やはりこの重源と言いたい。丹下健三も有史以来の建築家の3本の指に入ると思うが、一番はやはりこの重源だろう。

南大門をくぐり、相変わらず煎餅をねだる鹿の間を進むと、大仏殿に至る。大仏殿は奈良時代の建物と思われかちだが、現在の大仏殿は実は江戸初期に造られたもの。大仏殿は計3回造られていて、最初はもちろん奈良、天平の時代。だがこの建物は平安末期に平家の南都焼討で焼け、そして鎌倉初期に重源によって大仏殿は再建される。しかしこれも戦国時代に三好・松永の軍によって焼かれ、そして江戸初期に現在の大仏殿が造られた。だから現在の大仏殿は3代目になるが、この江戸の大仏殿を僕はどうしても好きになれない。それは正面ファサードについた唐破風によるのか。

この三つの建物の模型が、大仏殿の中の左奥隅に飾ってあり、見比べてみると面白い。現在の大仏殿は建物正面の幅が狭く、奈良、鎌倉の二つは間口が広く、さらに最初の奈良のものが最も大きい。どの時代のデザインが好きか見て欲しい。

大仏殿を出て、大仏殿を囲っている廻廊を外側から見ると、なんと日干し煉瓦の壁になっている。


大仏殿廻廊の日干し煉瓦の塀

最初にそれを見た時はびっくりしたものだ。日干煉瓦は中国や中近東のものだとばかり思っていたが、日本にもあるとは知らなかった。その後、左官仕事に興味を持つようになり、実は日本にも日干煉瓦や、版築(はんちく)が大陸から入ってきていたことを知った。この東大寺だけでなく近くの民家の塀にも今でも残っているし、山口県でも見たことがある。また法隆寺の廻廊の外側は美しい版築で出来ている。大仏殿の廻廊の日干し煉瓦を見ると、中国大陸との古代の交流に思いを馳せる。


東大寺近くの民家の塀

艶かしい程に美しい法隆寺廻廊の版築の塀

ところで、大仏殿は2度の火災に会ったが、大仏殿から少し離れた建物は火災を逃れて、今でも素晴らしい古代、中世の建物を見ることが出来る。

大仏殿から東の方へ200~300m東へ行ったところに法華堂(三月堂)がある。東大寺最古の建物と言われている。建物の左側(北側)の寄棟の部分が奈良時代に作られた寄棟の正堂(しょうどう)で、右側(南)は鎌倉時代の重源による入母屋の礼堂(らいどう)からなっている。もともとは二つに分かれ、それぞれ寄棟作りだったものを、南側の部分を重源が作り直して一体化させ、仏像のある正堂と礼拝する礼堂をつなぎ合わせた、密教形式への展開する建築史的にも重要視される建築だ。

それにしても見事なリノベ増改築で、奈良と鎌倉の様式の建物が一体化している。


法華堂(三月堂) 写真、東大寺提供

内部の仏像もすごい。金剛力士や四天王立像など天平彫刻の宝庫。さらにかつては静かに佇む日光(にっこう)・月光(がっこう)両菩薩像もあった。今は保存上の為か、最後に回る東大寺ミュージアムで見ることが出来る。

次に二月堂。修二会(お水取)で有名。まだ寒さの残る3月1~14日夜の「お松明」も有名だが、木造建築でよくあのようなことをやるもんだ、と思いながら見たことがある。実際江戸時代にこの修二会で焼け、現在は再建の建物。それでも性懲りもなく続けるのは凄い。

二月堂から屋根がかかった階段を降りたところの左側に仏餉屋(ぶっしょうや)と閼伽(あか)井屋(いや)いう二つの小さな切妻の建物がある。この二つの建物は何回見ても惹かれる。何の目的の建物か知らなかったが、仏餉屋はお供え物を作り、閼伽井屋はお水取りの水をくみ取る場所だそうだ。


左が仏餉屋、右が閼伽井屋

仏餉屋(ぶっしょうや)をみたあと、西へ300mくらい歩くと、左側の田んぼの向こうに誠に端正なプロポーションの大湯屋(おおゆや)が見える。


大湯屋

左側が切妻で、右側が入母屋、それに越屋根がついただけ。建築のデザインってこうするんだ、と教えてくれる教材のような建物だ。この建物を見るのも東大寺巡りの楽しみの一つだ。湯気で体を清める風呂だったらしいが、中は見せてもらえないので見ることはできないない。

さらに西へ進むと人気も少ない静かな林の中を歩くことになるが、大仏殿の真裏に至る。裏から見上げる大仏殿はさすが世界最大の木造建築、圧倒する迫力がある。そして大仏殿と反対側を見ると、遠くに正倉院が見える。正倉院の中には今でも貴重な宝物が置いてあり、もちろん中を見せてもらえないが、近くまで行くと正倉院はビックリするくらい大きい。

さらに西へまっすぐ進み、大仏殿を反時計回りに取り巻くように南へ、さらに東へと進むと戒壇堂へ至る。ここにも天平の凄い仏像、四天王像が安置されている。ただ、現在は戒壇堂保存修理及び耐震化工事のため、四天王像は令和5年秋ごろまで「東大寺ミュージアム」に安置されている。

最後に最初に見た南大門の横にある「東大寺ミュージアム」に入る。もともと法華堂(三月堂)にあった日光・月光菩薩にここで対面することが出来、この一年、心静かに、沈着冷静に過ごすようにと諭される気持ちになる。


法華堂(三月堂)の日光、月光菩薩

これにて、初詣の東大寺巡礼コースはこれでおしまい。

執筆者のご紹介

泉 幸甫(いずみ こうすけ)
泉 幸甫
物はそれ自体で存在するのではない。それを取り巻く物たちとの関係性によって、物はいかようにも変化する。建築を構成するさまざまな物も同じように、それだけで存在するのではなく、その関係性によって、そのものの見え方、意味、機能は変化する。 だから、建築設計という行為は物自体を設計するのではなく、さまざまな物の関係性を設計すると言ってもいい。 そして、その関係性が自然で、バランスがよく、適切さを追求することができたときに、いい建物が生まれ、さらに建物の品性を生む。 しかし、それには決定的答えがあるわけではない。際限のない、追及があるのみ。 そんなことを思いながら設計という仕事を続けています。
公式WEBサイト 泉幸甫建築研究所

略歴

  • 1947年、熊本県生まれ
  • 1973年、日本大学大学院修士課程修了、千葉大学大学院博士課程を修了し博士(工学)
日本大学助手を経てアトリエRに勤務。1977年、泉幸甫建築研究所を設立、住宅、非住宅双方の設計に取り組む。1983年建築家集団「家づくりの会」設立メンバー、1989年から1997年まで代表を務める。2009年、次世代を担う若手建築家育成に向けて家づくりの会で「家づくり学校」を開設、校長として現在も育成活動に取り組んでいる。

1994~2007年、日本大学非常勤講師、2004~2006年、東京都立大学非常勤講師、2008年から日本大学研究所教授、2019年からは日本大学客員教授。2008年には2013年~16年、NPO木の建築フォラムが主催する「木の建築賞」審査委員長も歴任した。

主な受賞歴は「平塚の家」で1987年神奈川県建築コンクール優秀賞受賞、「Apartment 傳(でん)」で1999年東京建築賞最優秀賞受賞、2000年に日本仕上学会の学会作品賞・材料設計の追求に対する10周年記念賞、「Apartment 鶉(じゅん)」で2004年日本建築学会作品選奨受賞、「草加せんべいの庭」で2009年草加市町並み景観賞受賞、「桑名の家」で2012年三重県建築賞田村賞受賞。2014年には校長を務める「家づくり学校」が日本建築学会教育賞を受賞している。

主な著書は、作品集「建築家の心象風景1 泉幸甫」(風土社)、建築家が作る理想のマンション(講談社)、共著「実践的 家づくり学校 自分だけの武器を持て」(彰国社)、共著「日本の住宅をデザインする方法」(x-knowledge)、共著「住宅作家になるためのノート」(彰国社)。2021年2月には大作「住宅設計の考え方」(彰国社)を発刊、同書の発刊と合わせ、昨年度から「住宅設計の考え方」を読み解くと題し、連続講座を開催、今年度も5月から第二期として全7回の講座が開催される。

泉 幸甫

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