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泉幸甫建築研究所 建築家  泉幸甫
4-沖縄、台湾の歩き方

沖縄

沖縄は江戸初期、薩摩藩によって侵攻されるが、それ以前は中国の文化を取り入れながらも沖縄独自の豊かな文化を育んでいたといわれる。薩摩藩によって支配権を奪われるようになってからも、一方では中国とも冊封・朝貢関係を続け、どっぷり日本の支配が及んでいるわけではなかった。

それが明治の廃藩置県により琉球王国から琉球藩となり、ついには沖縄県となった。ところが第二次世界大戦における日本敗戦で、日本からアメリカの統治に変わっていく。そして1965年再び日本へ復帰。何度も統治者が変わった地域だ。

沖縄に着くと確かに本土より暑い。そして植生が盛ん。RC造の白く塗られた箱のような建物が多く、モロッコ辺りの南の国も思い起こさせる。しかし沖縄の本土との違いの根底には、周辺地域、国に翻弄され続けた歴史があるということだ。だからか、確かに沖縄は日本でもあるが、何か違った印象を受ける。

沖縄の建物と言えばこれまでRCかブロック造と言われてきた。それは沖縄戦で焦土化し、アメリカの統治時代にアメリカから米松を持ち込んで家をつくったが、白蟻は米松が大好き、ことごとく被害を受けた。また木造は台風に弱いことからも沖縄では木造が作られなくなった背景がある。

しかし、近年沖縄においては木造の住宅が急速に伸びていて、何と構造別戸建て着工戸数で木造がRCを逆転したそうだ。その理由はホウ酸等による防蟻処理が行われるようになり、シロアリに対する20~30年保証ができるようになり、耐風対策の進化、それに木造の方が安い、ということがあるようだ。そのようなことから県外のハウスメーカーの参入が一気に増えている。

戦前までの沖縄の伝統的な風景が、アメリカの占領下でRCやブロック造で作られる風景へ変化し、そして今度は本土のハウスメーカーにより本土と同じ風景に変化しようとしている。是を以て、いよいよ本土復帰の完成か、と皮肉な思いをしないでもないが、そうだったら悲しい。

地上戦で焦土化し伝統的風景は消滅したから、戦前の沖縄の風景を体験できるわけではないが、数少なく戦火を逃れた建物がある。
その中でも有名なのが、国指定の重要文化財でもある「中村家住宅」。1700年代に作られ伝統的な沖縄の住宅の特色を備えている。屋敷を囲む琉球石灰岩の石積は圧倒的な力強さがある。沖縄の住宅の特徴の番座、裏座の間取り、それにヒンプン、高倉、豚小屋などがあり、屋根はオレンジ色の本葺瓦を漆喰で固めてある。もちろん屋根の上には魔よけのシーサー(獅子)が飾ってある


琉球石灰岩で屋敷を囲った石積みの中村家の塀

左が一番座、右は客間。降雨、湿気の対策がよく考えられている

この中村家住宅で僕の好きな部屋は、北東の角にある裏座と呼ばれる部屋。
昼寝したら気持ちよく眠れそう。引き違いと開き障子を組み合わせ、庭との関係もよくできている。


屋外との関係が素晴らしい裏座。引き違いの障子があるところは日本的

また屋敷の北側にある小高いところから見る屋根のつながりは美しい。右側に見えるのは豚小屋。


右は豚小屋。屋根は本葺瓦だが、明治の中頃までは茅葺だったらしい

沖縄に行くと沢山のシーサーを目にするが、どれもかわいらしいものばかり。

那覇にある識名園は琉球王家の別荘。ここも戦争で壊滅的破壊を受けたらしいが、その後現在のよう整備された。庭自体は回遊式庭園で日本の大名屋敷に倣ったものだが、中国風の六角堂、また琉球石灰岩で作られた美しい外構が至る所で見られる。


識名園 寄棟が連続して全体を構成、下屋がない作り

母屋の向かいにある六角堂

沖縄美ら海水族館の近くの「備瀬のフクギ並木」。
フクギは福木と書くが、沖縄のいろんなところで見られ、特に屋敷周りでは台風の風よけに用いられる。葉は肉厚でツヤツヤの光沢があり15センチはありそうな亜熱帯の木。
この備瀬の集落もフクギでおおわれ、道の両側もフクギ、フクギ。道は真っ直ぐでなく、揺らいでいる。現代の道のように直線でなく、また官民の境界が明確でない。そのあいまいさからか歩いているだけで癒される素晴らしい道だ。両脇のフクギの奥に民家がたたずんでいる。


備瀬にはこのような道が何本もあり、村全体がフクギでおおわれているようだ

沖縄にはたくさんの城跡が残っていて、城をグスクというが、首里城を始め、中城グスク、今帰仁グスクなどたくさんの城跡がある。その石垣が面白い。本土の城壁は真っ直ぐだが、沖縄の城壁はくねくねとカーブしている。

なぜそうなのか?いろいろと調べてみたが、これという回答はまだ見つけ出せていない。沖縄の城壁が自然の地形を生かしながら作ったのは間違いないが、逆に本土でそうせずに直線的になったのは何故か?それは素材の違い、あるいは美学?
泉の仮説では城壁の上に建物があったかどうか?城壁の上に木造の建物があるとすると直線的になる、ということかもしれない。


琉球石灰岩でクネクネとカーブするグスクの石垣

このような沖縄の歴史的な建物や景観がかつてあり、そして、アメリカの占領下で作り出された景観、それがまたどのように変わっていくのだろうか。本土と同じようにハウスメーカー的住宅でおおわれてしまうのか、それとも何か新しい沖縄らしい住の風景が生み出されるのか、気になる。翻って、それは本土の住む私達の問題でもある。

台湾

韓国はよく「近くて遠い国」と呼ばれるが、台北と那覇間は、那覇と鹿児島市間より近く、また日本と友好的、「近くて近い」国だ。

台湾はもちろん日本と違った景観があるが、外国に来たような気があまりしない。韓国や中国では外国にいる緊張感を多少覚えるが、台湾では道を歩いていても日常僕らが日本で見る店がそこらにあったりして、日本での日常と連続してしまう。


台北にある青山。ここが日本と言われても気付かないだろう

とは言っても台湾は沖縄よりさらに南の亜熱帯、圧倒的に植生が旺盛である。羊歯は人間より大きいものもあるし、台湾大学で見たヤシの木は大王椰子と名が付く位に大きい。


人間を覆うかと思われるような巨大な羊歯

台湾大学の大王椰子

ついでにその近くにあった木は美人樹と書いてあったが、なるほどトゲトゲがあった。


トゲトゲのある美人樹

これらの木々は観光客がめったに行かない台湾大学のなかにあるが、日本の統治時代に作られた台北帝国大学で、日本の旧帝国大学のキャンパスの構成に似ているが、広大な植物園にいるようで楽しい。ここに行ったのは伊東さん設計の図書館を見るためだった(ちなみに、ソウルに京城帝国大学というのもあった)。


台湾大学の図書館

ここの書棚を見ていたら、下の写真のようなコーナーがあった。訪ねてもリラックスできる台湾だが、日本との関係はそう簡単な歴史ではないんだなー、と思わせられた。沖縄も台湾も小さな島。諸外国から今も昔も揺さぶり続けられている。そして周辺諸国との関係も時代によって変わり続けることを実感させられる。

そういえば前回書いた韓国の金永琳さんのお父さんは抗日の独立運動家だったらしい。時代が変わり、その娘と私が親しくできたのは美への共感があったのからかもしれないが、時代が変われば関係も変わるのだろう。


台湾大学の図書館にて

日本の植民地で日本人が作った住宅を日式住宅というが、朝鮮半島や台湾で多く建てられた。その一つは台北の青田街(青田買いではなく)でもよく見ることができ、そこには台北帝国大学の教授や官僚などが住んでいたとのこと。

ここは今でも緑でおおわれた高級住宅地。そこに入母屋造りの住宅が点々とある。日式住宅を特徴づけるのに黒い平瓦で葺いた入母屋造りの屋根があるが、それは私たち日本人が見てすぐにかつての日本の住宅と分かるもので、戦前の日本の住宅の様式とも言っていいのではないか。

ただ日本本土と全く同じというわけではなく、台湾の暑さ対策に1階の床を部分的に下げ、床下の冷気を送り込む仕掛けがあったりする。日式住宅はけっこう残っていて、現在はリノベされてコンバージョンされているものもある。

我が祖先たちの海外での住まいが、その後、その国の人々によってまた大事に使い続けられているのを見ると、何か不思議な、またうれしい思いにさせられる(なお、韓国では日式住宅を敵産家屋と呼ばれることもあるが、資産価値が高く登録文化財に登録されているものもある)。

日式住宅の研究論文はよく見かけるが、同じ日本人でも建てるその地(風土)での作り方の変化や、のちの住人の変化で建物にどのような変化をもたらすか、さらには新たに入ってきた建物のその国への影響などの研究対象にはもってこいだからだろう。


床を掘り下げ床下の冷風を入れる工夫がみられる台北での日式住宅

九份(きゅうふん)という今では観光名所になっているところがあるが、もともとは日本が金山を開発したところ。この九份に皇太子時代の昭和天皇が訪れるために建てた日式住宅が残っている。よく見ると庇の出が短いことや架構形式も変だが、ここに立つと、ほぼ日本。もっともこの建物に昭和天皇は来なかったらしい。


九份に残る日式住宅

台湾はよく言われるがB級グルメがメッチャおいしい。


店先で買って、店の前の歩道のベンチで食べたお昼ご飯、デリーシャス!

台北の町中で見たロの字型の中庭形式の集合住宅。垂直方向はもちろんRCだが、水平方向の張り出しは鉄骨で作っている。これはアメリカでもよく見かける手法だが、作りやすいからだろう。いまはなき香港の九龍城砦のようでもある。


台北の町中で見たロの字型の中庭形式の集合住宅

執筆者のご紹介

泉 幸甫(いずみ こうすけ)
泉 幸甫
物はそれ自体で存在するのではない。それを取り巻く物たちとの関係性によって、物はいかようにも変化する。建築を構成するさまざまな物も同じように、それだけで存在するのではなく、その関係性によって、そのものの見え方、意味、機能は変化する。 だから、建築設計という行為は物自体を設計するのではなく、さまざまな物の関係性を設計すると言ってもいい。 そして、その関係性が自然で、バランスがよく、適切さを追求することができたときに、いい建物が生まれ、さらに建物の品性を生む。 しかし、それには決定的答えがあるわけではない。際限のない、追及があるのみ。 そんなことを思いながら設計という仕事を続けています。
公式WEBサイト 泉幸甫建築研究所

略歴

  • 1947年、熊本県生まれ
  • 1973年、日本大学大学院修士課程修了、千葉大学大学院博士課程を修了し博士(工学)
日本大学助手を経てアトリエRに勤務。1977年、泉幸甫建築研究所を設立、住宅、非住宅双方の設計に取り組む。1983年建築家集団「家づくりの会」設立メンバー、1989年から1997年まで代表を務める。2009年、次世代を担う若手建築家育成に向けて家づくりの会で「家づくり学校」を開設、校長として現在も育成活動に取り組んでいる。

1994~2007年、日本大学非常勤講師、2004~2006年、東京都立大学非常勤講師、2008年から日本大学研究所教授、2019年からは日本大学客員教授。2008年には2013年~16年、NPO木の建築フォラムが主催する「木の建築賞」審査委員長も歴任した。

主な受賞歴は「平塚の家」で1987年神奈川県建築コンクール優秀賞受賞、「Apartment 傳(でん)」で1999年東京建築賞最優秀賞受賞、2000年に日本仕上学会の学会作品賞・材料設計の追求に対する10周年記念賞、「Apartment 鶉(じゅん)」で2004年日本建築学会作品選奨受賞、「草加せんべいの庭」で2009年草加市町並み景観賞受賞、「桑名の家」で2012年三重県建築賞田村賞受賞。2014年には校長を務める「家づくり学校」が日本建築学会教育賞を受賞している。

主な著書は、作品集「建築家の心象風景1 泉幸甫」(風土社)、建築家が作る理想のマンション(講談社)、共著「実践的 家づくり学校 自分だけの武器を持て」(彰国社)、共著「日本の住宅をデザインする方法」(x-knowledge)、共著「住宅作家になるためのノート」(彰国社)。2021年2月には大作「住宅設計の考え方」(彰国社)を発刊、同書の発刊と合わせ、昨年度から「住宅設計の考え方」を読み解くと題し、連続講座を開催、今年度も5月から第二期として全7回の講座が開催される。

泉 幸甫

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