はじめに
高級和食店のカウンター材に用いられる木材の多くは桧です。白木である桧には清潔感、開放感があり、和食店舗内を明るくする効果もあります。何より、古くから桧という高級感のある木材こそが店舗の品格を高めると考えられてきました。
世界の文明の発祥は河川と森林に依拠し、文明発展の礎となってきたことはご存じの通りです。森林は文明の源です。ある森林科学者は、「森林は、ほかのすべての動植物の生態系を設計するような存在である」と述べています。
特に日本人にとって、森林と木材は重要な存在です。
日本書紀には、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した後、樹種の特徴とその使い方を説く場面があります。そこでは桧に言及する場面もあり、「桧は瑞宮(みずのみや)をつくる材料とせよ」と説いています。奈良時代の720年に完成したといわれる日本書紀で既に「桧」という言葉が登場しています。
瑞宮とは立派な建物を指します。古来、神社の普請には桧が多く用いられました。それは私たちの祖先が桧の耐久性、防腐防蟻性、耐水性などを経験のなかで理解し、清浄な白木で、油性分が多く、削り上げると美しい光沢が現れることなどを高く評価してきたことによると思います。
もう一つ、桧に関するエピソードをお伝えします。
15年ほど前、奈良県の宮大工で、興福寺中金堂の再建をはじめ、寺社建築の第一人者として知られた滝川寺社建築の滝川昭雄棟梁から、法隆寺で使われたという1300年前の桧の板を見せていただいたことがあります。1300年前の木材であるにもかかわらず、美しい外観はそのままでした。滝川棟梁によると、飛鳥・奈良時代の古い建築の柱材は主に桧、平安時代から杉が加わったそうです。
法隆寺改修を手掛けた宮大工の西岡常一棟梁は生前、「桧の良いところは、第一に耐久性が長いことだ」と語り、法隆寺の伽藍に使われた桧は1000~1200年、薬師寺の東塔は1300年、これほど長い耐用年数のものは桧以外にないと指摘しています。桧は製材後、建築物で使われ続ける間も、数百年にわたり強度が向上するといわれます。
桧カウンター材、需要面から
近年、桧カウンター材需要は活発に推移しています。インバウンド需要に呼応して大都市部を中心に、大型ホテル建設が増えており、これに連動してホテル内に出店する寿司、天ぷら、すき焼き等の高級和食店舗がカウンター材として高級桧を採用するためです。当社にも桧カウンター材のお問い合わせが増えています。
大都市部に顕著なことですが、東京五輪をはじめとした大型イベントもあって、インバウンド需要(新型コロナ感染症以前の話ですが)のさらなる盛り上がりを見込み、既存の高級和食店の内装改修、また、新店開設なども活発で、桧カウンター材需要を押し上げるものとなっています。さらに、世界的な和食ブームを背景に、海外で建設される大型ホテルで高級和食店を入れるケースがあり、ここでも桧カウンター材が求められます。
新型コロナ感染症問題で飲食需要が減退していると言われますが、高級和食店、例えば完全予約制で1日10人程度の高級寿司店(客単価5万円以上)ではそうした影響が軽微で、むしろ密にならないことから予約が多く、内装設備投資にも積極的だそうです。
桧カウンター材、原材料供給面から
桧カウンター材無地で幅500㍉を必要とする場合、そうした製材を取得するための桧丸太径級は当然のことながら600㍉以上となります。しかしながら成長の遅い桧が600㍉径を超えるまでには200~300年、地域によってはそれ以上の時間が必要です。そして、無地材をとるためには数百年にわたり、枝打ち、除間伐を繰り返し、真円で欠点の少ない丸太を人の手で作り出さねばなりません。ですから、材長10㍍以上、末口計600㍉で、欠点の少ない桧丸太は1本1000万円以上します。
桧高級材の需要分野はカウンター材だけではありません。現在、大詰めに来ている愛知県・名古屋城天守閣改修工事、奈良県・平城京跡大極殿新規工事、沖縄県・首里城再建工事などでは、桧高級材を化粧構造材や内装材等でふんだんに使用します。こうした大型工事は数年がかりのため、先行して原木調達に動きます。桧カウンター材はこうした強力な競合先を相手にしなければなりません。
高級カウンター材を取得するための桧大径木資源は枯渇しています。特に天然桧という指定に対応することは大変困難なことです。例えば最高峰とされる天然木曽桧の丸太生産量は年間数百立方㍍に過ぎません。カウンター材を取得する際に丸太から原材料を調達する場合、1本1000万円以上の丸太を購入し、これを製材工場まで搬出し、製材、乾燥、二次加工して、カウンターとして設えるまでに丸太1本単価換算で2000万円以上かかるでしょう。しかもカウンター材を取得した残りの原材料もコストの一部ですから、その使いみちを考えていく必要があります。
これに対し、流通在庫を活用する場合、必要とする寸法に近い原板(盤)を取得すれば、乾燥も進んでいるため、製造にかかる費用を大幅に圧縮することができます。最大の難点は、必要とするカウンター材にぴったり適合する原板があるかということです。
そこで重要になるのは、コストを優先するのか、あくまで1枚板の状態で設計寸法にこだわるかという点です。
木材販売店が在庫している流通在庫をある程度把握し、これを活かして柔軟に設計すること、幅、長さ、厚みが足りなければ、幅ハギ、縦継、積層といった加工技術を用いることをお勧めします。調達コストは劇的に減額できるはずです。例えば付け台等で隠れる部位には割安な桧材で対応するとか幅ハギ加工を検討することもコストを削減するうえで重要です。
桧カウンター材の命は、見える部分の表面が無地であることです。特に流通在庫の原板を用いる場合、削ったとき、表面に節が現れることがあります。4㍍長のカウンター材表面に、たった1つの小節が出ても取り換えとなることがあります。こうしたリスクを誰が取るのかも考えていく必要があります。
桧カウンター材の主要な産地
高級桧産地として有名なのは、木曽(長野県)、吉野(奈良県)、紀州(和歌山県)、尾鷲(三重県)、四万十(高知県)、東濃(岐阜県)、美作(岡山県)、西川(埼玉県)、天竜(静岡県)などです。桧人工林については九州の熊本県や大分県が全国上位に位置します。
桧カウンター材の関係者は木曽の天然桧を最上とし、吉野、尾鷲、東濃などを重用します。格付けは造作、建具等での品質の優劣に基づくものですが、天然林であることも希少性のうえで、重要な評価材料となります。
木曽桧について
はじめに
木曽桧は、尾州桧とも呼ばれ、尾張藩が「桧一本、首一つ」(桧を一本無断伐採すると、下手人本人、もしくはその親族の一人を打ち首にする)という厳しい保護政策によって、その森林が守られてきました。戦国時代には各地で戦火が広がり、建築物の再建に木曽の桧を大量に伐採したため、極度の資源枯渇を起こしましたが、わずかに残された母樹の種から生育した桧を尾張藩が厳格に管理して今に至る300年生以上の天然更新された木曽桧の森林となりました。
明治期以降は、徳川幕府の直轄地として尾張徳川藩の所領地であった木曽御嶽山(木曽桧の産地)は国有林となり、現在も年間伐採数量が国によって厳しく管理されています。天然木曽桧丸太の年間販売数量は数百立方㍍とごくわずかです。
現在、天然木曽桧として流通している製材は、戦前から戦後に製材し販売されたものが大半を占め、その希少性から高値で取引されています。木曽桧は別名「官材」(国有林材)と呼ばれ、同じ木曽桧でも御嶽山の岐阜県側の民有林から曳き出される桧は「民材」と呼ばれています。
官材を管理しているのは中部森林管理局で、丸太販売実務は木曽官材市売協同組合が担当しています。官材木曽桧製材の多くも、地元の製材工場からの出品を得て、木曽官材市売協組が市売り販売を行っています。ただ、天然木曽桧の資源はごくわずかであることから、中部森林管理局、木曽官材ともに、戦後植林された人工林桧及び桧以外の樹種の販売に力を入れています。
20年に一度、式年遷宮を行う伊勢神宮の社殿はすべて天然木曽桧丸太を切り出して製材します。私も伐採現場を見たことがありますが、伐採事業者が古式ゆかしい装束に身を固め、斧だけで切り出します。
木曽桧の特徴
天然木曽桧の特徴は、尾張藩が留山として伐採を厳しく制限する一方、造林に力を入れたことから、糸目と呼ばれ柾目挽きにすると非常に木目が細かく、真っ直ぐで美しい材が取得できる点です。見た目の美しさ以外にも、耐久性・耐水性が非常に高く、強靭です。木曽桧独特の格調高い香りもプロの評価対象です。
能で使用される面は、室町時代や桃山時代までは桐材など様々な木材で制作されていましたが、江戸時代からは桧材を用いて制作されるようになりました。世襲の面打師の家である出目(でめ)家が、家元の格式を幕府から認められ、桧材が入手しやすくなったため、以後は能面の材は桧に統一されることになったそうです。桧は軽くて彫りやすく、狂いもなくて上からほどこす塗りもよく乗るので最良の木材です。
木曽官材市売協同組合の製品市でも能面の原材料となるフリッチも多数出品されます。おそらく、能面に使われる桧材は、建築用やカウンター材で必要とされるような長さは関係なく、木目が均一で、目が詰み、節が一切ないことが求められます。そのため能面になるような桧は立方㍍換算した場合、驚くような高値となります。卓球のラケット(トップ選手仕様)用材も同様のことが言え、短尺材で構わないが最高級桧を求めることから、立方㍍換算の価格は目が飛び出るほど高いといわれます。
吉野桧について
はじめに
奈良県の吉野地方は、古くから日本の森林・林業・木材産業をリードしてきた産地です。
吉野林業とは、広義には吉野郡全体、狭義には吉野川上流域に位置する川上村・黒滝村・東吉野村で行われている林業のことを指しています。年間雨量2000㍉以上、年間平均気温14℃、冬季の積雪30cm以下という、森林の生育に最適な自然環境を備えていました。
吉野林業における森林所有はほぼすべて民間です。山守制度など独特な仕組みを導入して育林に取り組んできました。国有林が大半である木曽との大きな違いです。
吉野林業の始まりは1500年ごろから。吉野地区の川上村で杉、桧の人工林造林が行われるとともに、大阪城、伏見城の建築材料として吉野材が使われました。吉野林業の歴史は500年以上あり、これは世界的にみても、最も早くから組織的に人工林造林に取り組んできた産地であるといえます。吉野林業は後に説明します独自の造林手法で、手入れの行き届いた杉、桧を育ててきました。
吉野を林業・木材産業産地として発展させた原動力は、1700年ごろから始まった樽丸と呼ばれる酒樽材料となる無地柾目板の量産です。吉野の柾目板はほぼ独占的に灘や伏見の酒造産地に納入されていきました。樽丸材から発展していったのが割箸製造で、1800年代後半には始まったといわれます。現在、一般的な割箸供給の99%は漂白された中国産ポプラ材に依存していますが、吉野地区では零細割箸製造工場が5社ほど活動しています。
明治初期には木材需要が著しく増加し、全国で皆伐による木材供給が行われ、森林蓄積をひっ迫させましたが、吉野地区ではこうした動きに与せず、高樹齢森林の維持に注力したそうです。今でも江戸期から手入れされてきた立木が美しい姿をそのままにしています。
吉野地区は、吉野川を挟んで、大いなる山間にあり、農業生産力が乏しかったことから、林業が地域産業の中核となっていきました。ただ、明治期まで製材を輸送する手段が貧弱であったことから、吉野川、熊野川といった河川を使った丸太での出荷も多く行われました。
このため、製材産業はむしろ下流域の和歌山、新宮で発展していくことになります。その後、昭和14年に貯木場ができ、トラック輸送が本格化し始めると、地元で製材して、製品を出荷する体制が整備されていきます。現在、吉野製材工業協同組合(吉野材センター、60社ほどが加盟)が吉野産製材の全国販売で中心的な役割を担っています。
吉野産地では、最も早くから木材乾燥の研究が行われたほか、主に数寄屋普請の建築物向けに天然絞り化粧丸太に対抗する形で、人工絞り化粧丸太・磨丸太の製法も開発されました。また、吉野産地を全国有数の木材産地とした最大の要因は、集成材技術の研究です。日本の集成材技術は吉野産地から始まりました。造作用集成材製造工場が多数登場、さらには集成柱に化粧単板を貼る集成化粧柱を開発したのも吉野産地でした。
吉野材の伐出は現在、多くをヘリコプター集材に依存しています。歴史的に林内作業道を敷設することを嫌ってきたため路網が充実しておらず、古くは架線集材、戦後はヘリコプター集材が主体となってきました。ヘリ集材は全国的にも吉野、木曽、東濃ぐらいです。
吉野林業 徹底した密植・多間伐・長伐期
吉野林業育林技術の特徴は、密植・多間伐・長伐期にあります。一般的な林業地と比べ3~4倍の植林(密植)を行い、主伐までに数十回の枝打ち、除伐・間伐を行い、最終的に他の林業地と似たような森林密度としていきます。特に徹底した枝打ちと間伐が吉野材の優れた品質を支えています。大径木を取得することを目指した林業であったことから、80年生から、100年以上の長伐期を基本としています。
植裁は、苗を縦横1㍍間隔で植えます。つまり、1haあたり1万本の苗を植え、成長とともに枝葉と枝葉が触れあうようになり、下の方の枝葉には陽が当たらなくなります。この状態で数年経つと、木の上部にだけ枝葉が付いた林になり、無節の良い木ができるのですが、そのままでは弱々しい木になってしまうため、除伐と間伐施業が、大切な作業となります。
下刈りは、植栽後3年までは年2回、4~6年の間は年1回行われます。つる刈りは6~8年目に行われ、9~13年目には吉野独特の下枝の切り落としと劣勢木の伐倒が行われます。枝打ちに先立つヒモ打ちの目安は高さ約1.5㍍で、林内密度の調整と共に、林の中での作業をしやすくする目的で行われます。
植林後30〜40年生までは3、4年に1回、まず劣勢木や暴れ木を除伐し、樹冠・樹幹ともに均整の取れた優良木が等間隔になるように間伐し、用材の条件を整える仕様に仕立てます。40〜100年までは利用間伐ということになり、その間8〜10年ごとに間伐をし、中径木に育てていきます。その後は木の成長と地力の状況を見ながら10〜20年間隔で間伐を行い、大径木へと育てていきます。除伐と間伐を何度も繰り返して、通直・完満・無節の優良大径材に仕立てていきます。
吉野材の特徴
吉野材の品質面の特徴は次の通りです。◇無節(密植・多間伐・長伐期施業により、節が少なく美しい木目。◇年輪幅均一:密植により、細やかで均一の年輪を刻み、整った柾目の断面。◇真円:丸太の根本から上部まで、中心に芯が通っている。◇強度:製品材の曲げ強度試験でも強いヤング率を実証。◇元末同大:幹の根元から上部までほぼ同じ太さで、製品にした時に色のバラつきが少ない。◇色目:吉野杉・吉野桧は、淡紅色の美しい上質な色目。◇通直:きめ細かな施業により、丸太が通直に成長。◇香り:樽丸材の歴史が示す通り、清浄感を感じさせる香り。
尾鷲桧について
はじめに
木曽産地が尾張徳川藩により厳格に管理されていたように、紀伊半島は紀伊山地を挟んで三重県側と和歌山県側に分かれますが、江戸時代は紀州徳川藩が紀伊半島を管理し、そこで産出される木材を積極的に江戸まで海上輸送し、江戸の都市化に貢献してきました。紀伊国屋文左衛門の世界です。特に和歌山勢は海運活用に熱心で、戦後、和歌山県田辺地区が北米産米ツガ製材の主要産地となった当時、やはり船で東京に米ツガ構造材を大量に移送しました。
明治期以降、尾鷲材、紀州材は一部が国有林に組み込まれる一方、吉野産地と同様、民間所有が多くを占め、大山持ちが登場します。吉野材、天竜材、尾鷲材は日本三大美林(人工林)に数えられます。
紀伊山地の急峻な地形とやせた土壌、降雨量の多さという、木が生育するには非常に厳しい条件の中、ゆっくりと長い年月をかけて育った尾鷲桧は年輪が緻密で、油分が多く光沢があり、耐朽性にも優れているとして高い評価と信頼を得ています。
関東大震災の時に尾鷲桧の柱をつかった家屋の倒壊が少なかったことから、その名が全国に知られるようになったといわれ、樹種強度の高い桧です。芯材には「カジノール」という成分が多く含まれ、桧特有の香りとともに、高い耐朽性、抗菌性を発揮します。
戦後も尾鷲は桧芯持ち柱材(桧役柱)の銘柄産地として高品質な材を供給して繁栄しました。背割りを施した真壁工法住宅で必要とされる桧役柱の主要な産地となり数十の桧製材工場が背割り役柱を生産していました。しかしながら、伝統的な現し・真壁工法の衰退、和室の減少という問題に直面し、桧背割りあり役柱需要も激減しており、新たな商品開発にも取り組んでいます。
尾鷲桧は、紀州桧、一部の吉野桧と産出地が近く、産地ブランド化が今ほどうるさくなかった頃はそれぞれの産出地が混交し、ブランド力が高い吉野材として取り扱われることもありました。今ではそれぞれの原産地が独自のブランドとして普及に取り組んでいます。
尾鷲桧は、吉野桧のような大径木を目指した造林ではなく、特に戦後は芯持ち化粧柱の主産地となっていくことから、伐出される丸太径級は16~20㌢の元木が中心でした。しかし、芯持ち役柱需要が激減するに従い、カウンター材やフローリング・パネリング等の洋間造作に移行していきました。
尾鷲材の流通は、主としてウッドピア松阪コンビナートの素材・製材市売事業協組であるウッドピア市売協同組合を通じて行われます。同市売協組の市には全国から問屋が参集し、「市場の中の市場」と称される所以です。首都圏の多くの木材製品市場会社も、尾鷲材の仕入れはウッドピア市売協同組合からです。木曽桧に木曽官材市売協組、吉野材に吉野材センターがあるように、ブランド産地は自前の製品販売組織を持っています。
尾鷲桧の特徴
尾鷲地域の山の斜面は急峻で土壌がやせており、木が成長するには厳しい自然環境です。そのなかでじっくりと時間をかけて育った尾鷲桧は年輪が緻密です。年輪は、春から夏の暖かい時期に成長した色の白い春材部分と、夏の終わりから秋の低温な時期に成長した色の濃い秋材部分があります。
尾鷲は温暖な地域なので、秋にも成長が続きやすく、秋材が多くなります。秋材はゆっくりと育つため、細胞が小さくよくしまっており、幅が狭く、色が濃く、堅くて、強度も高いといわれます。また、秋材に油脂分が多く、材に美しい光沢をもたらしています。
平成28年、農林水産省が新たに創設した制度「日本農業遺産」に、第一号として全国で8地域が認定を受け、その一つとして「急峻な地形と日本有数の多雨が生み出す尾鷲桧林業」が認定されました。①急峻で痩せた土地において、適切な森林密度管理により、緻密な年輪が形成された高品質な桧を持続的に生産する。独自の伝統的技術が継承されている②丁寧な製材技術と高品質材を生み出す伝統的技術が継承されている③海岸線まで桧が植林されている等、地域の林業によって形成される景観に特徴がある―「尾鷲桧林業」は3つの特徴が高く評価されました。
紀州桧について
紀州材は徳川家康が江戸幕府を開いた頃、江戸城大改装や諸国大名屋敷の建設、神社仏閣の建立が盛んに行われる中で、重用されるようになったそうです。主に和歌山県を中心とする紀伊半島南部(=旧紀州藩領)と、熊野川流域の奈良県南部から出材される材をいいます。
この地方では吉野林業の影響も受け、急斜面でありながら他地域に比べて植栽密度の高い植林を行ってきました。きめ細かな施業を行うことで、年輪幅が細かく整った桧となります。
紀州桧は油脂分が多く、美しい木目で、強度、耐久性に優れています。また、脂分はアロマオイルとしても使用されます。紀州桧は時間が経つほど落ち着いた光沢が増し、より魅力が引き出されるといわれます。
戦後和歌山県では、たくさんの杉や桧が植林されてきましたが、その際には良質な木が育つよう、県内数ヶ所の上質な桧林を母樹林とし育てた苗木が植えられました。現在では世代交代していますが、植林の際には母樹の子孫の苗木が使用され、紀州桧の品質が守られているそうです。
土佐桧について
はじめに
高知県の優良材は大きく分けて東側の魚梁瀬杉、西側の四万十桧(幡多桧)が有名で、いずれも江戸時代から、大阪に出荷されてきました。今でも土佐堀をはじめとした高知県由来の地名が大阪に多数残るのは、主にこの当時から始まった木材取引によるものです。土佐藩の資料によると、軍役を木材で代替した記録もあり、当時の土佐藩に取り、重要な現金収入減であったと想像されます。明治期以降、土佐藩が所有していた森林の多くは国有林に組み込まれました。特に日本三大杉美林である魚梁瀬杉は四国森林管理局の安芸森林管理署が管理していますが、現在、原則として伐採を停止しています。
土佐材は豊臣のころから、大阪を中心とした関西地区に出荷されてきました。しかしながら、首都圏市場はあまりに遠く、安定的な出荷が困難だったことから、せっかくの優良材ですが、首都圏をはじめとする東日本市場ではほとんど認知されず、これが今日の苦戦の理由となっています。
古くから高知は桧の産地としても有名です。「土佐桧」、「幡多桧」、「四万十桧」などと呼ばれ、宇和島や西予などの愛媛県南部にも分布しています。森林所有形態は国有林(四国森林管理局)が主体です。
土佐桧は、芯のあざやかな赤みと強い香りが特徴で、油脂分を多く含んでいるため、年月を経るごとに光沢が増し、耐久性も高いのが特徴です。こうした土佐桧の特徴が評価され、京都の西本願寺の修復や新国立劇場の舞台の床材にも使われています。
前記した豊臣のころ、土佐材は大阪城にも使用されました。大阪城築城の時に太閤秀吉から「日本一」というお墨付きをもらったことで、全国に知られる優良材となりました。江戸時代の初期には大阪城や伏見城などの修築をはじめ、大きな戦乱に巻き込まれた大阪のまちの復興にも多くの土佐材が使われました。また、大阪に日本で最初の木材市場を開き、土佐藩の財政救済に貢献してきた歴史があります。今も大阪に残る「土佐掘」「白髪橋」といった地名はそのころの名残といわれています。
土佐桧(幡多桧、四万十桧)の特徴
土佐桧は、寒暖差が大きく多雨の環境で育ち、しなやかで美しく脂の多いことが特徴です。
高知県は森林率84%と日本一の森林県であり、杉の産出とともに、桧の人工林面積でも日本一を誇ります。
四国山脈の深山に囲まれた清流・四万十川、吉野川の源流域は、温暖な気候でありながらその寒暖差が大きく、さらに台風の通り道に当たり大風や大雨も多い地域です。このような厳しい環境が、しなやかで木肌が美しく、高強度で脂分の比較的多い土佐桧を育てます。針葉樹の中では成長が遅く手間と時間がかかるため、杉材に比べ「割高な木材」とされていましたが、現在では蓄積量も増え、国産材として安定供給が可能となっています。
土佐桧は熱に強く、耐水性、耐久性に優れ、殺菌作用も高いことから、建築材の他に、風呂材、すのこ、まな板などにも利用されています。特にまな板として使用する場合、抗菌、防臭、消臭機能も効果的で、適度に柔らかな材質は包丁の刃当たりがよく、衝撃を吸収して刃こぼれを防ぎます。土佐桧は脂分「ひのきオイル」が豊富なため水切れがよく、変色しにくく、長く清潔に、快適に使用することができます。
土佐桧の取扱いは、四万十地区は協同組合西部木材センター(宿毛市)、幡多地区は協同組合高幡木材センター(高岡郡四万十町)が中心になって行います。県内の桧製材事業所は小規模零細が大半で、自ら県外・島外へ営業することが難しく、両センターに製材を出荷し、市日には同センターに関西など県外の買い方が集まり、競りで購入していきます。また、協同組合高知木材センター(高知市)も土佐材全般の県外出荷を担当しています。高幡木材センターでは先ごろ、新しい製材工場を建設しました。
東濃桧について
東濃地方と呼ばれる美濃東部は室町時代からの木材産地であり、木曽谷と比して裏木曽とも呼ばれ、江戸時代には尾張藩の飛地領として保護されてきました。尾張藩は美濃国恵那郡付知村、川上村、加子母村(現中津川市)の三村での伐採を禁じ、村人は伐ることはもちろん、山への出入りも禁じられていたそうです。
東濃地域で産出される桧等は、伊勢神宮の式年遷宮で御神木として使用されることでも有名です。現在では裏木曽地方以外の東濃地方のほか、下呂市、加茂郡、関市、郡上市等で産出された桧も東濃桧と呼ぶそうです。この地域で産出した桧を平成3年より地域ブランド「東濃ひのき」と称しています。近年、飛騨川流域で産出される桧も含めて「東濃ひのき」と呼ばれるようになりました。
東濃桧の特徴は、年輪幅2~3㍉幅と細かく均一で、芯が円心近く、材質はピンク色で艶があり、香り高いことです。節が小さめなこと、木目の美しさ、粘りの良さなども特徴のひとつです。
西川桧について
埼玉県の南西部、荒川支流の入間川・高麗川・越辺川の流域を西川林業地と呼び、江戸時代、この地方から木材を筏により江戸へ流送していたので、「江戸の西の方の川から来る材」という意味から、この地方の材が「西川材」と呼ばれるようになりました。近年は飯能市、日高市、毛呂山町、越生町に及んでいます。古くは江戸の大火のときの復興用材として、さらに関東大震災の際には木材の需要が殺到し、西川林業地が認知される様になりました。
この地域の風土が杉や桧の生育に適しているとともに、人々が枝打ちや間伐など丁寧に手入れを重ねてきたことにより、西川材は木材の色、艶が良く、年輪が緻密で節の少ない木材として知られています。2009年には、地域ブランド「西川材」として商標登録されました。
地域の大部分は秩父古生層からなる褐色森林土で、平均気温12~14℃、平均降水量1,700~2,000㍉、降雪は年3~4回と比較的温暖であり、地質、気候ともに森林の育成に適しています。西川材は埼玉県産の優良木材として、首都圏を中心に使用されています。西川林業は、長い伝統と林業者の強い愛林思想に支えられた丁寧な育林作業によって、優良な材が生産されてきました。西川材を好む設計者も少なくありません。
結びとして
国産材素材生産は年間2200万立方㍍にのぼります。このうち、58%強を杉で占めます。桧は300万立方㍍前後で全体の13%強にとどまります。この数量から、桧カウンター材に適した大径木の生産はおそらく桧全体の数パーセント程度と考えられます。それほど全国で桧高樹齢大径木が少なくなっているからです。数百年にわたり、先人が丹精込めて育ててきた桧高樹齢木を大切に活用する必要があります。
前にも述べましたが、既にある流通材を活かすこともご提案したいと思います。油性分が豊富な桧はある程度、年月を経ても削り直せば、乾燥が進んだ状態で美しい木肌が蘇ります。