(2021年10月1日現在)
前回、釈尊は菩提樹の下で、十二縁起の解明を果たしたと述べた。釈尊の覚りの内容は、古来、さまざまな理解があり、禅宗では、暁の明星を見て覚ったと伝える。大乗仏教は四諦や十二縁起の真理ではない、無上正等覚の覚りを強調した。そのような次第で、十二縁起は小乗仏教の一部である縁覚の覚りと見なされるようになる。十二縁起を観察して生死輪廻の根本である無明を対治し涅槃に入るから、縁覚だというのである。
実はこの縁覚の語の由来には、もう一つある。それは、「飛花落葉」の縁に触れて覚るから、縁覚であるというものである。花はいとしくも散り、葉はいやでも枯れ落ちる。この「飛花落葉」の語は、日本人の心に横たわる無常感にいたく訴えるものがあり、文芸の世界では好んで用いられたのであった。
確かに「飛花落葉」は、感傷をさそう美しい言葉である。しかし考えてみると、飛花は桜であれば一時とはいえ爛漫の春を謳歌したのであり、落葉もその前は紅葉・黄葉とりまぜて錦を織るほどに美しさを湛えていた。そのような春・秋の自然の彩りを毎年毎年、鑑賞できることは、むしろ人生の歓びでさえあるであろう。
平安時代には、春と秋といずれかまされると、和歌によって競ったという。例えば、以下は凡河内躬恒の一人での歌合せだが、次のような例がある。
面白くてめでたきことをくらぶれば春と秋とはいずれまされる
春はただ花こそはさけ野辺ごとに錦をはれる秋はまされり
秋はただ野べの色こそ錦なれ香(か)さえにおえる春はまされり
さおしかの声ふりいでて紅(くれない)に野べのなりゆく秋はまされり
(『躬恒自歌合』、『続群書類従』第三十三輯下)
しかしこうした春秋の自然の美の風景も、考えてみればまさに「飛花落葉」へのめぐりがあればこそであろう。落葉樹が豊かに植わる日本ならではこそ、花見の宴、紅葉狩りもありえるのであって、われわれはその自然の恵みにどれだけ感謝しても足りないものがある。
俳聖・芭蕉は、自然の四季の変化を愛でることにこそ、いのちの喜びがあることを説いた。
しかも風雅におけるもの、造化にしたがいて四時を友とす。見るところ花にあらずという事なし。思うところ、月にあらずという事なし。像(かたち)、花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心、花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがい、造化に帰れとなり。
これは、『笈の小文』の最初の方にある言葉である。
とはいえ、この「飛花落葉」は世の無常を象徴していることも事実であり、「見わたせば花も紅葉もなかりかり浦のとまやの秋の夕暮れ」(藤原定家)との寂寥の世界にいざなうことは否定できない。このとき、人々はやはり、無常ならざる常なるものを深く欲することも事実であろう。生成流転する有為の奥山を超えた変わらないいのち、変わらない真理を求めずにはいられないのが人間である。樹木においてそれを象徴するのは常緑樹、その中でも何と言っても松ということになろう。禅語には、「松樹千年翠」という言葉もある。「松無古今色」ともある。その松はおそらく、「青山元不動、白雲自去来」の青山と同旨であろう。
それにつけても感心させられるのは、聖徳太子が三歳の時に言ったという次の言葉である。ある日、花園に遊んだとき、「桃花は一旦の栄物、松葉は万年の貞木なり」と言って松を賞したというのである。日本人は、正月を松の内と言ったり、能舞台には松の大木を描いたり、神聖な松を尊ぶ特別の想いを有している。その心を、今の太子の言葉は、よく言い当てていよう。太子の言葉として確かなものは、「世間虚仮、唯仏是真」の句のみであるというが、それと前の言葉とはよく照応していよう。
そういう松を愛した人に、良寛がいる。良寛は、岩室の田中に生える一本松を心から愛でていた。例えば次のような具合である。
岩室の田中に立てる一つ松今日見れば時雨の雨に濡れつつ立てり
ひとつ松人にありせば笠貸さましを蓑着せましものを一つ松あわれ
行くさ来さ見れどもあかぬ岩室の田中に立てる一つ松の木
岩室の田中の松は待ちぬらし我(わを)待ちぬらし田中の松は
良寛は緑を湛えつつすっくと立つ孤松に、孤独な自分を投影して愛してやまなかったのであろうか。あるいは良寛は曹洞宗で本格の修行をした禅僧であり、五百年の時を隔てて高祖・道元に私淑していた、その道元のことではなかっただろうか。道元が開いた永平寺のあたりには松の木が多く、道元は自分の歌集に『傘松道詠』と名をつけている。もしかして良寛にとっては、松は道元禅師のことだったのかもしれない。
ともあれ、日本の四季には、咲き乱れる桜花も真っ赤に燃える紅葉もあれば、変わらない松の翠もある。さて人に、花・紅葉と松といずれか勝される、と問うて見たいものであるが、むしろ春も秋もよいように、桜・紅葉も松も賞美したいことであろう。日本では平地においても、落葉樹と常緑樹と両方がある。その自然の恩恵は、われわれをどれだけ豊かにしてくれているかしれないであろう。