大谷石の採掘現場を訪ねて

【地下60㍍の採掘場、大谷石産業】

目次

大谷石の採掘現場を訪ねて

はじめに

当社も協賛企業として応援しているNPO法人家づくりの会(東京都、石黒隆康会長)は「家づくり学校」(泉幸甫校長、4年制)を主宰しています。今年度で15期目を迎えました。こうした後進の育成に向けた取り組みは建築界でも注目され、2014年日本建築学会教育賞(教育貢献)を受賞するに至っています。

このほど2年生の授業で、栃木県の採石場を訪問し、「深岩石」露天掘り、「大谷石」地下掘りの現場などを視察する機会に恵まれました。

当社にとって木材製品は身近な存在ですが、石となると商いの対象としての詳しい知見が乏しく、工務店調達のほか、外構や造園関係者の担当となることから、石材流通実態もほとんどわからないのが実情です。ただ、石は建築材料をはじめ、墓石、日用雑貨、装飾品など多分野で活躍しており、私たちもなじみのある資材といえ、特に天然資源という点で木材と似ています。今回の視察ではその一端を見ることができたと思います。

石材は日本各地で産出され、その特徴によって様々な用途に用いられています。日本の建築物は基本的に木造でしたが、城郭をはじめとした大型建築物、建築物の内外装(石塀、門柱、壁材、玄関ポーチ、マントルピースなど)、土蔵などで頻繁に使われてきました。特に耐火性能が優れていること、構造面でも堅牢なこと、木材とは表情を異にする意匠性などが重視されてきたのだと思います。

ただ、木材と比べはるかに密度が高く(=重く)、人力や馬車以外の動力がなかった時代、切削から成形、搬出に至るまで多大な労苦を伴っていたことは容易に想像できる点です。見方を変えると機械化が石材産業発展の契機になったといえます。
製材産業も江戸時代までは人力で、水車動力による機械化が始まったのは明治8年、蒸気機関が導入されたのは大正時代から、電気動力が導入されたのは戦後、清水建設東京木工場が嚆矢といわれ、分野を問わず機械化が産業発展において最も重要な要因です。


【大谷石産業さんの石材保管場】

大谷石の変遷

日本の石材産業全体がどのように発展していったのかはさておき、大谷石が産業としてどのように発展していったのかは「大谷石産業の変遷」(吉野清史宇都宮共和大学客員研究員、2020年)に詳しく述べられています。ここでは同著作を参考にしています。

大谷石は宇都宮市の大谷地区の中心部から東西4㌔㍍、南北6㌔㍍の範囲を中心に採掘されており、埋蔵量は推定6億㌧といわれ、1枚岩の緑色凝灰岩が地上から地下深くまで堆積されています。これだけの規模は世界的にも例がないとのことです。大谷石使用の歴史は古く、1500年前ごろの石棺が発掘されています。その後、宇都宮城普請などでも使用されてきました。

大谷石は江戸時代にはすでに商品化されており、鬼怒川の水運を利用して江戸まで搬入されたとのことですが、長距離輸送力が乏しく、産出された大谷石の多くは宇都宮周辺で消費されていたようです。手堀りの時代は切り出す際に鏨(たがね)とつるはしを用いました。生産高は石塀になる50石(150×300×900㍉)で一人1日10本程度だったそうです。

これが明治時代に入り馬車輸送が本格化し、産出現場でも石材を搬出するために「人車軌道」(トロ)が使用されるようになりました。1915年には「石材専用軽便鉄道」が開通し、蒸気機関車輸送が開始され、関東一円に大谷石の販路を獲得するようになります。1922年にはフランク・ロイド・ライト設計による旧帝国ホテルにコンクリートと組み合わせ大量の大谷石が使用され、翌年の関東大震災でもほぼ無傷だったことから大谷石の耐火性能、耐震性能が高く評価され需要の拡大につながりました。

もう一つの大きな転機は戦後になりますが、1952年にフランス製のチェーン式採掘機が導入されたことで、1957年には大谷石採掘研究会がオートメーション採掘第1号機を実用化し、石材輸送も馬車から鉄道、さらにトラックに移行し、戦後の大谷石需要拡大に応えていったとのことです。

大谷石出荷高は1897年の6000㌧が最も古い記録で、大正時代に「垣根掘り」技術が伝えられ、垂直方向の「平場掘り」で掘り進め、良質な層に当たったら垣根掘りで水平に掘り進むという採掘方法が主流となり、1916年には15万8000㌧まで増加、戦前最盛期には1928年に25万㌧まで増加したそうです。

「垣根掘り」とは壁を切り出していく方法で、高さ1600㍉程度、幅7500㍉程度に掘り進んでいきます。「平場掘り」は「垣根掘り」である程度の広さに広がったら、地面を切り出して下に掘って行く方法です。「みそ」の大きな大谷石が出てきたら、そこで下に掘るのをやめて、別のところを垣根掘りしていきます。「みそ」とは大谷石に見られる斑点状の模様で、もろく風化しやすい部位です。ミソが小さく美しい肌面の大谷石を「細目」と称します。「みそ」がより小さく、より美しいほど高級とされています。

戦後の採掘は1947年ごろから本格化し、1973年には89万㌧とピークを迎えます。当時の大谷石採掘事業者は120件、従事者200人を数え、出荷額も92億円まで拡大し、地域経済の一端を担うまでになったようです。しかしながら2018年の大谷石出荷高は1万3000㌧、出荷金額は3億円強まで減少し、現状は地下掘りを継続している事業所は数社ほどとの指摘も聞きました。

大谷石需要の減退理由はいくつかあり、特にコンクリートブロックの普及に代表される建築資材の多様化、建築基準法改正による建築規制が指摘されています。また、粉塵による珪肺病等の患者増加、採掘量増に伴う採掘場所の深化で坑内落盤や崩壊が相次ぎ、特に地表にまで影響を及ぼす陥没事故が大谷石産業に大きなダメージを及ぼしたようです。

建築基準法に関しては石塀の基準は高さ1.2㍍以内、長さ4㍍ごとに控え壁(木造不可、石塀壁厚の1.5倍以上)配置、石塀壁厚は高さの1/10以上、基礎の根入れ20㌢以上となっており、300㍉高さ未満の石塀だと4段が上限となります。1970年の建築基準法改正では石積みだけの塀の高さは2㍍以内となっていましたが、東日本大震災後、高さ規制が強化されました。1.2㍍高さを超える場合は鉄筋が必要になります。

現在、大谷石の採掘は栃木県から砕石登録と採取計画の認可を取得する必要があり、採取期間、採取する石の種類と採取数量、採掘方法(坑内掘り・露天掘り)採掘する土地面積、石採取のための火薬使用の有無、石採取のための機械の種類と数、石採取場周辺見取り図など細かく申請するようになっており、事前測量が徹底されています。また、坑内掘りについては高さ30㍍、幅10㍍以内とし、採掘を進める際には坑内の構造安全性確保のため10㍍四方の巨大な石柱を確保する必要があります。

大谷石産業さん訪問

訪問した大谷石の地下採掘現場は「石の里 希望」で、2010年から地下採掘が開始されました。現在、地下60㍍まで坑内掘りが進んでいます。エレベーターで一気に地下60㍍まで下降すると地上とは全く異なる景色が現出します。「栃木の石 深代」の植松時四郎さん(栃木県宇都宮市)と大谷石産業の鈴木一矢代表に案内していただきました。


【地下へと続くエレベーターホール、大谷石産業】

生産方式はレール型の電動カッターで縦横に裁断し、裁断線に沿ってハンマーで鏨を打ち込み割っていきます。機械化されたとはいえ、ほとんどは人力で対応しています。鏨を打ち込む際の音が変化したら下まで割れているということで、それまでのカーン、キーンといった打ち込み音がドンッと変わります。この音が聞こえたら打ち込みをやめ、バールを割れ目に差し込みテコの力で岩盤から石を分離させます。

石の大きさは需要に応じていくつか種類がありますが、「五十石」(ごっとういし)厚さ5寸、幅10寸、長さ3尺(150×300×900㍉仕上がり)、「六十石」(ろくとういし)厚さ6寸、幅10寸、長さ3尺(180×300×900㍉仕上がり)などを基本とし、石塀規格は長さ900㍉(仕上がり)となります。比重は約1.7です。
大谷石産業さんの主な品目はダイヤ挽き、チェーン挽き、リブ(四角)、リブ(三角)、ビシャン、コブ出し、割肌(コバ材)、割肌調ノミ切、ツル目、平刀ツツキ、B・ローラー、SBがあります。

地下60㍍での石材採掘は驚きに満ちていました。大型の乗降専用エレベーターで一気に地底まで下降すると地底の大空間が現れます。採掘が進むに連れ空間も広がっていくのですが、上記したように空間の最大の大きさは高さ30㍍、幅10㍍と規定されており、これを超えると別の坑内採掘場所に移動することになります。


【大谷石の天井部にホイストが設置され、石材を搬送する、大谷石産業】

採掘作業は電動カッターで縦横に裁断し、一定の大きさの石材を取得すると、坑内に設置されているホイストとクレーンで移送され、その後、地上に搬出されます。採掘現場の広大な空間の天井に長い鋼製ホイストが固定され、石材が吊り下げられて移動します。地上には採掘された様々な寸法の大谷石が保管されています。動力搬出がなかった当時は地中深くまで続く細い木製のはしご階段を伝って一つずつ石工が担ぎ上げていったそうです。

大谷石は天然ゼオライトの多孔質構造で、温度・湿度を一定に保つ調温・調湿効果があり、ガスや水を吸着する特性がシックハウス症候群の防止や消臭にも有効だそうです。炭鉱と異なり採掘の際に有毒ガスが発生することはありません。

川田石材工業さん訪問

次に訪問したのは深岩石を露天掘りで採掘する川田石材工業さんで、同社は栃木県鹿沼市で5代続く老舗石材店です。小高い山すべてが火山灰凝結した凝灰岩の一枚岩で、長年かけ、山頂部から徐々に採掘し、現在も山の中腹当たりで採掘作業をしています。麓の作業場も凝灰岩の上にあり、地底まで深岩石が貯蔵されており、埋蔵量はかなりのものになります。


【山の中腹にある石切場、川田石材工業】

深岩石はこの地域で採掘される凝灰岩で、見た目は大谷石とほとんど変わりませんが、大谷石に比べ強度、水や温度に対する耐久性に優れているといわれます。比重は約1.66、吸水率14.1%、圧縮強度270㌔㌘f/平方㌢。同社によると石切り場の歴史は1800年代前半からとのことです。大谷石と同様に「みそ」がところどころに出ており、玉石と呼ばれる別種類の石も内部に混入しています。

石切作業場までは山裾をひたすら登るしかありません。先人はこの細くて急な岩盤の小道を上り下りして石材を担いで搬出してきたのです。現在は鋼製の架線が麓まで張られ、搬送機で石材を下ろすようになっています。石切場での作業は電動カッターで縦横に裁断線を入れ、その後、石材上部と石材底部に鏨でくさびを入れて割っていきます。この作業は人力に負っています。


【石切場の様子、川田石材工業】

川田石材工業さんの主な深岩石は、無垢の石塀材(チェーン目挽き)が「五十」(仕上がり寸法150×300×900㍉)を中心に、大きなものは尺角(仕上がり寸法300×300×900㍉)まであり、この上に原石(330×360×930㍉)があります。

麓の作業場では石材加工も行っており、ここでは板材(コーピン挽き)と呼ばれるダイヤ挽きが行われ、張り石や敷石向けとなります。300×300㍉、300×600㍉、300×900㍉を基本とし、厚さは20㍉から対応しています。

上記したように往時の活況ははるか昔のこととなり出荷量は激減しています。石材業に従事する職人の数も大幅に減少しています。今も業界団体や行政を通じ大谷石を原材料とした商品開発、さらに大谷石採掘跡地活用など様々な取り組みが見られ、宇都宮市では大谷石を活用した居宅、事務所、店舗等に公的助成を行っています。ただ、目先の需要回復となると容易でないと痛感しました。


【深岩石生産の様子、川田石材工業】

大谷石文化は2018年、日本遺産に認定され、屋根石や壁面の張り石(土壁造の表面仕上げ材となる)建築物が集中する西根集落も「西根石造建築群」として日本遺産の構成文化財に指定されました。西根集落で使用されている石は地元の「徳次郎石(とくじらいし)」を主体に大谷石も多数使用され、倉庫、納屋、蔵、石塀などが美しい街並みを形成しており、石蔵だけで60棟にもなります。

【西根石造建築群の石蔵】

【西根石造建築群の石蔵】

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