東洋大学名誉教授 竹村 牧男
第四回 草木国土、悉皆成仏
仏教における樹木をめぐる教えというと、まず『法華経』「薬草喩品」の「三草二木の喩」が想起される。仏はみんなに等しく説法の雨を降らすが、それを受け止める者の資質・能力等によって成長が異なることを譬えたものである。経典には、大・中・小の草と、大・小の樹が出るが、それらにどう人間や神々、小乗仏教の修行者(声聞・縁覚)、大乗仏教各宗の修行者(菩薩ら)を配当するかについては、さまざまな見方がある。ともあれこの譬喩は、人間の宗教的な資質・能力等の多様性を説くもののようであるが、それ以上に一切衆生の成長・成熟(成仏)を願う仏の「無差別の大悲」が主題なのであろう。
インドでは、人間や動物は心を持っているので「有情」という。しかし草木は心を持たないので「非情」という。我々日本人の感覚では、動物も植物も、同じように命あるものとして、その間に何らか通いあうものを思うが、インドではその間に厳然とした区別があると見るのであった。三草二木があたかも仏道において成長するといっても、あくまでも譬喩においてであって、草木は瓦礫や岩石のように心を持たないものの仲間なのである。
ところが、日本の天台宗においては、「草木国土、悉皆成仏」という言葉を作り出す。草木も国土も、成仏するというのである。いかにも日本の緑に覆われた風土において成立した句である。
この句はお能の謡曲には結構取り入れられ、たとえば『鵺』には、「一仏成道、観見法界、草木国土、悉皆成仏」の経文が引用され、『西行桜』には、「およそ心なき草木も、花実の折は忘れめや、草木国土、皆な成仏の御法なるべし」とあったりする。他に、『芭蕉』、『墨染桜』、『杜若』など、20ばかりの謡曲に出てくることが確認されるという。そうであればこの句は、やがて人口に膾炙しもしたことであろう。
【芭蕉と杜若】
この句の意味は、非情である草木も国土も、すべては成仏するという意味と考えられていよう。草木も発心・修行し、菩提と涅槃とを実現する、ということを述べたものと考えられているのではなかろうか。果たして、本当にそのようなことはありうるのであろうか。
平安末期か、むしろ鎌倉期か、天台宗のある文献(『漢光類聚』)には、「草木国土、悉皆成仏」の意味について、七種を示している。「①諸仏の観見、②法性の理を具す、③依正不二、④当体の自性、⑤本より三身を具す、⑥法性の不思議、⑦中道を具す(中道とは、一念三千、草木もまた欠かざるが故に云う)」というものである。これだけではちょっと分かりかねるかと思われるので、いくつか解説してみよう。
第二に、理を具すことにおいての成仏とは、草木もまた、法性というあらゆる存在に普遍的な本性(空性でもある)すなわち理を具えている。仏とは覚りの智慧のことであるが、かの本性そのものとしての理は、本来、清浄なる本覚でもあって、煩悩に汚染されていることはなく覚りの智慧そのものである(理智不二)。その草木が具えている、本覚とも一体の理(本性)に関して、それを成仏と言うのである。
第四に、自己の本性そのものにおける成仏とは、どんなものであれ、そのものの当体は仏なのである。国土であれ衆生であれ五蘊(衆生等を構成する物質的・心理的諸要素)であれ、そのすべての本性は、それ自身(空性であるがゆえに)常住で、煩悩を離れていてその本質は変らない。その清浄なる覚のところを、仏というのである。草木成仏というのは、草木が仏のしるしとされる三十二相八十種好(仏像に見るような仏の身体的諸特徴)を実現するというようなことではない。草木の根・茎・枝・葉は、それぞれそのままにおいて、その清浄なる本性そのものを成仏というのみである。
第六に、不可思議ということにおける成仏とは、草木の自性は言語・分別の届かないものであって、事ともいえず、理ともいえないものである。その分別を一切離れた本性のところを、強いて成仏というのみである。
以上をみればわかるように、ほぼ「草木国土は、悉く皆な成仏する」ということではない。すでに草木国土を貫いてその本性となっている真如が、本覚と一体であって、そこに仏を見るのであり、ゆえにむしろ「草木国土は、すでに悉く皆な成仏している」という意味なのである。日本仏教の世界では、そのように深い「草木国土」に関する哲学を展開していたのであった。
もっとも、天台宗での議論に先立って、空海は同様の思想をすでに述べていた。たとえば『即身成仏義』には、「もろもろの顕教の中には四大(地大・水大・火大・風大)等をもって非情となし、密教にはすなわちこれを説いて如来の三摩耶身となす」と言っている。このように空海は、いわゆる物質界(色法)をも、如来の三昧耶身として、仏を体としていると説いている。
空海の他の著作にも同様の説が見られる。『吽字義釈』には、「草木また成ず、いかに況や有情をや」とあり、また「草木に仏なくんば、波にすなわち湿(うるおい)なけん。……三種世間は、みなこれ仏体なり、……」とある。三種世間の一つは、器世間すなわち環境世界のことである。空海が草木国土は仏を自体としていると見ていたことは、間違いないであろう。それは、天台の「草木国土、悉皆成仏」の意味とほぼ同じことであった。
なお、空海作と信じられてきた『秘蔵記』には、「草木非情成仏義」があり、そこには「法身微細の身、虚空及び草木、一切処に遍ぜざる所無し。この虚空、この草木、即ち法身なり。宍(にく)眼に於いては粗色の草木を見ると雖も、仏眼に於いては微細の色なり。是の故に、本体を動ぜずして仏と称するに妨礙無し」という説明がある。
天台智顗の『摩訶止観』という書物に、「一色一香、中道に非ざるなし」という句がある。見るもの聞くもの(感覚の対象の一つひとつ)、絶対でないものはないというほどの意味である。仏教の見方からすれば、このように草木ももとより仏そのものなのであった。とすれば我々は、巨木、霊木のみでなく、あらゆる樹木を合唱礼拝せずにはいられないことであろう。
(つづく)
執筆者のご紹介
1948年東京都出身。1975年、東京大学大学院(印度哲学)博士課程中退。その後、文化庁宗務課専門職員、三重大学人文学部助教授、筑波大学助教授(哲学・思想学系)、同教授を歴任。2002年に東洋大学文学部教授に転じ、2009年9月、東洋大学学長に就任、2020年3月末に退職。専門領域は仏教学、宗教哲学。唯識思想で博士〔文学〕。筑波大学名誉教授、東洋大学名誉教授。主な著作に、『入門 哲学としての仏教』、『ブッディスト・エコロジー』、『空海の哲学』、『唯識・華厳・空海・西田』、ほか多数。
(2021年10月1日現在)