仏教と樹木のいのち 第3回「禅僧の樹木の悟り」


東洋大学名誉教授 竹村 牧男

第三回 禅僧の樹木の悟り


【柏の木】

釈尊は菩提樹の下で成道を果たしたが、「不立文字・教外別伝」といって、その覚りの心印を経典の外で人に伝えるというのが禅宗の主張である。その中国での始まりは、菩提達磨がインドからやってきたことにある。達磨はすでにインドにおいて悟っていたのであり、中国では法を授けるに足る弟子が現れるのをじっと待って面壁九年し、ついにその真髄を二祖慧可に授けたという。それはやがて、中国全土に広まり、日本にも大きな影響を与えたのであった。

特に六祖慧能は偉大な禅匠であった。師・弘忍の出した課題に、一方の弟子・神秀が、「身は是れ菩提樹、心は是れ明鏡の台にあるが如し、時時に勤めて払拭せよ、塵埃を惹かしむること勿れ」と掲出したのに対し、慧能は「菩提、本と樹に非ず、明鏡、亦た台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん」と提示して、弘忍の印可を得たのであった。
いわば、菩提というものなどあるものか、即今・此処・自己に釈尊のいのちは息づいているではないか、というもので、臨済の「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す」の句同様、いかにも痛快である。

慧能の下には多くの偉大な禅僧が出て、その後、中国は禅宗の花盛りになっていくが、中には樹木の縁で覚りを開いた禅僧も少なくない。たとえば徳山は桃の花を眺望して心を明らめ、香厳は竹に小石が当たった音を聞いて悟道したのであった。その消息を、道元『正法眼蔵』の美しい言葉を借りてご紹介しよう。

まず、霊雲志勤の体験である。「又た霊雲志勤禅師は三十年の弁道なり。あるとき遊山するに、山脚に休息して、はるかに人里を望見す。ときに春なり、桃華のさかりなるをみて、忽然として悟道す」(『正法眼蔵』「渓声山色」)

次に香厳の体験である。「かくて年月をふるに、大証国師の蹤跡をたずねて、武当山にいりて、国師の庵のあとに草をむすびて為庵す。竹をうえて友としけり。あるとき、道路を併浄するちなみに、かわらほとばしりて、竹にあたりてひびきをなすをきくに、豁然として大悟す……」(同前)

今、紙数の関係で詳しい語釈等は省くが、多彩な仕方で樹木が禅者の覚りの機縁となったことがうかがわれるであろう。道元は後年、永平寺に移って雲水らを厳しく指導したが、ある日の説法(上堂)には、つぎのようにある。

上堂。仏祖の大道を参学するに、人道これ最(すぐ)れたり。……大事を明らむる時節、四季同時なり。就中、春は則ち霊雲、桃華を見て大事を明らめ、秋は則ち香厳、翠竹を聞いて大事を明らむ。霊雲和尚、一時桃華洞において、豁然として大事を明らむ。……また香厳和尚は、……一日閑暇の日、道路を併掃する次(おり)、沙礫を迸(とば)して竹に当って響きを発する時、忽然として大事を明らむ。……今日の人、須(すべから)く両員の芳躅を慕うべし。(『永平広録』四五七)

道元は永平寺にあった晩年においても、豁然大悟、忽然大悟があることを認め、霊雲と香厳のよきひそみ(芳躅)を慕うべきであると諭しているのである。

そうした中、樹木が禅の覚りの核心とされた公案(禅道修行者に与えられる問題)の例がある。『無門關』第三十七則の「庭前の柏樹子」というものである。

趙州和尚に、ある僧がたずねた、「初祖達磨大師がインドからやってきて伝えようとした禅の極意(祖師西来意)とは何ですか」。趙州は答えた、「庭前の柏の木だ」。

ある学人(修行僧)が、達磨がインドから中国にやってきた意とはどのようなものか、趙州和尚に問うと、趙州は「庭さきの柏の木」と答えたという。この「祖師西来意」は何かとは、要は達磨が伝えた心印、覚りとは何かということである。これに対し、趙州和尚は「庭前の柏樹子」、すなわち柏の木だと答えたのであった。
この柏の木は、日本の柏餅の葉を茂らす柏の木ではなく、ある常緑樹であるという。一説に柏真の樹ともいう。そうであれば香木でもあるようである。まあ、どの木でもよいであろう。
この問答には続きがある。

僧、「老師、外境(外界の事物)で人に示さないでください」。趙州、「老衲は外境で人に示したりしない」。
僧は改めて問うた、「祖師達磨がインドからやってきて伝えようとした禅の極意とは何ですか」。趙州はいった、「庭前の柏の木だ」。(秋月龍珉『一日一禅』、311頁)

もちろん趙州は木も仏、岩も仏、何もかもが仏、といった汎神論を唱えたわけではないであろう。この柏の木は、客観世界の対象(外境)ではない。ではこの木はいったい、どこに生えていようか。無門はこの話を評して、「もし趙州の答処に向かって見得して親切ならば、前に釈迦無く、後に弥勒無けん」と言っている。親切とは他人にやさしいことではなく、親なること切であるという意味である。


【柏の木 環境省巨木データベースから】

世界の禅者、人類の教師と謳われた鈴木大拙は、若い時、鎌倉の円覚寺で雲水同様の修行生活をしていた。アメリカに渡る前年(明治29年)の臘八接心(12月8日の釈尊の成道にあやかって12月(臘月)初旬に行われるきわめて厳しい禅修行)で見性を果たしたという。その時、大拙は「月明の中の松の巨木と己れとの区別をまったく忘じつくした自己(無相の自己-無位の真人)を自覚されました」という(秋月龍珉『鈴木禅学入門』)。「庭前の柏樹子」のありかを示唆する話であろう。
                (つづく)


【地蔵大マツ 三重県観光連盟公式サイトからお借りしました】

執筆者のご紹介

竹村 牧男(たけむら まきお)

1948年東京都出身。1975年、東京大学大学院(印度哲学)博士課程中退。その後、文化庁宗務課専門職員、三重大学人文学部助教授、筑波大学助教授(哲学・思想学系)、同教授を歴任。2002年に東洋大学文学部教授に転じ、2009年9月、東洋大学学長に就任、2020年3月末に退職。専門領域は仏教学、宗教哲学。唯識思想で博士〔文学〕。筑波大学名誉教授、東洋大学名誉教授。主な著作に、『入門 哲学としての仏教』、『ブッディスト・エコロジー』、『空海の哲学』、『唯識・華厳・空海・西田』、ほか多数。
(2021年10月1日現在)

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