三ツ星 建築の旅シリーズ Part2 第1回「ベルリンの歩き方」


泉幸甫建築研究所 建築家  泉幸甫

1-ベルリンの歩き方

目次

冷戦構造の崩壊

第二次世界大戦後の歴史を大きく見ると、1989年のベルリンの崩壊の前後で分かれる。ベルリンの壁の崩壊は東西冷戦構造の崩壊の象徴で、また日本ではバブル経済が崩壊し、戦後の経済成長が終焉した。

東西冷戦構造期の東アジアでは韓国や台湾のように独裁政権の国が多かった。しかし日本は冷戦構造下で経済的発展を遂げる。逆に冷戦構造の崩壊後は台湾や韓国のように民主化が進み、日本は周りの国々に追いつかれ、追い越されようとしている。東西冷戦構造の崩壊はそれを契機としてアジアの国の在り方にも大きな影響を及ぼした。

ヨーロッパももちろんだ。EU(欧州連合)が出現し、経済的にも政治的にも規模を拡大した。また軍事同盟であるNATO(北大西洋条約機構)は冷戦構造下でもすでにあったが、冷戦構造の崩壊とともに拡大し、と同時に現在のウクライナ情勢のように新たなレベルの複雑さと不和をもたらしつつあり、冷戦構造の崩壊の次に来る時代の変化が起こりつつある。

海外への旅は異なった地域の空間を体験するだけでなく、異なった時間を体験することにもなる。最初に、ヨーロッパの土を踏んだのは1991年、44歳の時だった。ずいぶん遅い体験だった。設計事務所を開きお金のない時代が長く続いたから、行きたいと思っても行けなかった。もっとも1ドル360円では日本国民のほとんどにとって海外旅行は高値の花だった。その後円が強くなりヨーロッパへ矢継ぎ早に行くようになる。

ヨーロッパの最初に踏んだ地はベルリンで、滞在時間はわずか72時間。ベルリン訪問の切っ掛けは、1991年はバブルが崩壊したとは言え、日本にはまだ経済力があり、ベルリンの壁の崩壊で東西ドイツが合併し、ベルリンがヨーロッパの中心になることが予想され、ある企業の社長から旧東ベルリンにある建物を購入したいから、その建物がいいものかどうか見て来て欲しいとの依頼だった。こんないい話はない、もちろん、二つ返事で依頼に応えた。

そのような切っ掛けだったが、依頼の仕事をしながらはじめてみるヨーロッパの建築に衝撃を受けた。それまでアジアの建物はたくさん見ていたが、ベルリンの大聖堂のドーム建築をはじめ、ヨーロッパ建築の荘厳さに圧倒された。72時間ずっと付き添ってくれた自由ベルリン大学のF先生は、ヨーロッパ建築に圧倒される僕を見て「泉さん、イタリアの建築はこんなもんじゃないですよ、建築はイタリアですよ!」と建築家の僕は言われっ放しだったが、その後ローマのサン・ピエトロ寺院を見て、これも本当にすごいと思ったが、ベルリンでの初めての異文化との出会は別ものだった。

そして別の視点からだが、ベルリンで驚いたことは、それまで分断されていた東と西で街の景色が全く異なっていたこと。共産党政権の下にあった東ベルリンには全く活気がなく、東ドイツの国力が相当落ち込んでいたことが一目瞭然だった。

それに、第二次世界大戦が終わって45年経つとはいえ、東ベルリンの町には戦争による弾痕の跡があちこちにたくさん残っていることだった。日本と違い、ヒットラーは首都ベルリン陥落まで戦い続けたから、市街戦による戦争のすさまじさを今に残していた。戦争とはこんなにも銃撃しあうのかと、建物の壁を背にして恐怖を覚えた。

第二次世界大戦後のドイツの世界への処し方は、メルケルをはじめとして、この戦争経験を抜きにして語ることはできないと思った。


【旧東西ベルリンを分断していたベルト地帯、監視塔が左側にある】

【旧東ベルリンの建物に残る第二次世界大戦により弾痕の痕】

このような第二次世界大戦の痕跡を見ているうちに、ふと建築家シュペーアのことに思い経った。シュペーア、といきなり言っても誰のことかご存じない方も多いと思うが、あのヒットラーお気に入りの建築家である。

ヒットラーも若い頃、絵描きや建築家を志したことがあり、芸術が好きであった。作曲家ではリヒャルト・ワーグナーを愛し、建築では古典主義を愛した。あのヒットラーではあるが、ある種の芸術家に対しては非常に尊敬した態度を見せたといわれる。

そのようなヒットラーの建築における美学に応えたのが、シュペーアだった。彼はヒットラーのお気に入り主任建築家となり、ヒットラーの第三帝国を表現したベルリンの壮大な都市計画を行っている。ヒットラーはシュペーアといる時間は楽しかったらしく、図面を見ながら何時間も二人で時間を費やしていたといわれる。

またヒットラーのお気に入りに、レニ・リーフェンシュタールという女性映画監督がいたが、彼女の有名作品にプロパンダ映画の最高傑作と言われる「意志の勝利」というのがある。彼女の作品だとは知らずに、この映画を見た方も多いと思うが、ヒットラーが開いたニュルンベルクでの党大会のシーンの記録映画で、天に向かってサーチライトの光が何十本も列柱のように伸びる壮大な会場のシーンがあるが、あの会場を設計したのもシュペーアである。


【映画「意志の勝利」からナチスのニュルンベルグ党大会】

ところでこのシュペーアは、第二次世界大戦でのドイツの戦局がだんだんと怪しくなってくると、ヒットラーによって本来の建築家としての役割でなく、軍需大臣に就任させられてしまう。建築家は現実を計画的に動かす能力に秀でた者が多く、彼もそのような面で長けていて、そういう立場になってしまったらしい。実際彼が軍需大臣になってから兵器の生産力は飛躍的に高まったと言われるが、ついに彼はナチス政権の中枢まで担うようになってしまう。しかもユダヤ人のホロコーストを行ったナチス政権の中枢を、であった。

戦争が終わり、彼も当然、第二次世界大戦後に有名なニュルンベルグ裁判にかけられることになる。裁判の争点はナチスによるアウシュビッツなどのホロコーストの実態を知っていたか、そしてそれに加担したか、ということだったが、評決の1票の差で死刑が決まるところまで行ったが、彼の証言の真偽はともかく、彼は死刑から逃れることができた。ただ20年の刑に服し1966年に釈放された。

彼の人生を思うとき、いつも気が重くなる。彼のことをどう思ったらいいのか、見当がつかず考えはさまよってしまう。建築家の多くは自分を認めてくれた上での仕事の依頼であれば、迷いなく受けるだろう。それは建築家の性とも言っていいものかもしれない。

それに、当時の多くのドイツ人は、ヒットラーの説く、ドイツが抱える問題への解決の方法に影響されていた。シュペーアはシュペーアなりに、建築家としての仕事が、それに貢献していると思っていたのだろう。しかもシュペーアが主任建築家になった時にはホロコーストは存在しなかったのだから…と、もしも自分がそのような状況下にあったら、自分はどうしたかと自問自答する。

ところで、ミース・ファン・デル・ローエもヒットラーの下で、仕事をやりたくて、様々な案をヒットラーにプレゼンしたらしい。しかし、ヒットラーはその案が気に入らなかった。シュペーアとミースの運命は、ヒットラーが彼らのプレゼンが気に入ったかどうかで、その後の人生が大きく分かれるころになった。

リベスキンド

21世紀になりベルリンの中心部にさほど大きくない建物だが、強烈な存在感を持つ建物が誕生した。「ベルリン・ユダヤ博物館」で、第二次世界大戦でドイツがユダヤ人へ大きな被害をもたらした反省から建てられ、ベルリンにおけるユダヤの歴史の資料の展示、またユダヤ人への迫害を建築空間で表現している。

外壁はギザギザに引き裂かれた金属板で覆われ、緊張感を伴った激しい外観をしている。内部に入ると床は傾き不安定な感覚に襲われ、また何もない天井の高い薄暗い空間で、強制収容所におけるユダヤ人虐殺の歴史を思い至らせる。

建築家はユダヤ系アメリカ人のダニエル・リベスキンド。脱構築主義、略してデコン(Deconstruction)と言われる一派の建築家だが、完成当時世界的に話題なった建物だ。


【ベルリン・ユダヤ博物館の外観】

【ベルリン・ユダヤ博物館 建物内部も激しい緊張感に満ちている】

【天井の高い空虚な空間で強制収容所を思わせる】

リベスキンドは一躍、このユダヤ博物館で有名になり、さらに9.11アメリカ同時多発テロの跡地、グランドゼロの再建コンペを勝ち取った。しかし建設の関係者である土地所有者や不動産開発業者などの大きな力の前で、非力なリベスキンドの設計案はズタズタになるほど大幅な設計変更が加えられ、建築自体も他の設計者にゆだねられてしまった。リベスキンドにとっては、苦い思い出しか残らない仕事になったことだろう。

ヒットラーに気に入られたシュペーア、大きな力に敗北したリベスキンド。どちらも時代に翻弄させられた。ただシュペーアもリベスキンドも媚びへつらってはいなかったようだ。シュペーアも最後はヒットラーの戦争方針に堂々と意見を述べていたらしい。リベスキンドも敗北はしたが、自分を曲げなかった。それが救いだ。

今、シュペーアとミース、それにリベスキンドが会うことができたら、どのような会話をすることになるのだろう。

シュペーアに関する本とDVDの紹介

日本放送出版協会 「ヒットラーの建築家東 秀紀

DVD 「ヒトラーの建築家 アルベルト・シュペーア」

クボデラ株式会社から。 「建築家がお薦め、三ツ星★★★建築の旅シリーズ」はこれまで6回に分けて建築家・泉幸甫氏とともに京都、奈良さらにアジア各国を旅してまいりました。24年1月からは6回に分けてヨーロッパ、北米、アフリカへと旅立ちます。引き続き皆々様方にご愛読いただければ幸いです。

執筆者のご紹介

泉 幸甫(いずみ こうすけ)

物はそれ自体で存在するのではない。それを取り巻く物たちとの関係性によって、物はいかようにも変化する。建築を構成するさまざまな物も同じように、それだけで存在するのではなく、その関係性によって、そのものの見え方、意味、機能は変化する。
だから、建築設計という行為は物自体を設計するのではなく、さまざまな物の関係性を設計すると言ってもいい。
そして、その関係性が自然で、バランスがよく、適切さを追求することができたときに、いい建物が生まれ、さらに建物の品性を生む。
しかし、それには決定的答えがあるわけではない。際限のない、追及があるのみ。
そんなことを思いながら設計という仕事を続けています。
公式WEBサイト 泉幸甫建築研究所

略歴

  • 1947年、熊本県生まれ
  • 1973年、日本大学大学院修士課程修了、千葉大学大学院博士課程を修了し博士(工学)
日本大学助手を経てアトリエRに勤務。1977年、泉幸甫建築研究所を設立、住宅、非住宅双方の設計に取り組む。1983年建築家集団「家づくりの会」設立メンバー、1989年から1997年まで代表を務める。2009年、次世代を担う若手建築家育成に向けて家づくりの会で「家づくり学校」を開設、校長として現在も育成活動に取り組んでいる。

1994~2007年、日本大学非常勤講師、2004~2006年、東京都立大学非常勤講師、2008年から日本大学研究所教授、2019年からは日本大学客員教授。2008年には2013年~16年、NPO木の建築フォラムが主催する「木の建築賞」審査委員長も歴任した。

主な受賞歴は「平塚の家」で1987年神奈川県建築コンクール優秀賞受賞、「Apartment 傳(でん)」で1999年東京建築賞最優秀賞受賞、2000年に日本仕上学会の学会作品賞・材料設計の追求に対する10周年記念賞、「Apartment 鶉(じゅん)」で2004年日本建築学会作品選奨受賞、「草加せんべいの庭」で2009年草加市町並み景観賞受賞、「桑名の家」で2012年三重県建築賞田村賞受賞。2014年には校長を務める「家づくり学校」が日本建築学会教育賞を受賞している。

主な著書は、作品集「建築家の心象風景1 泉幸甫」(風土社)、建築家が作る理想のマンション(講談社)、共著「実践的 家づくり学校 自分だけの武器を持て」(彰国社)、共著「日本の住宅をデザインする方法」(x-knowledge)、共著「住宅作家になるためのノート」(彰国社)。2021年2月には大作「住宅設計の考え方」(彰国社)を発刊、同書の発刊と合わせ、昨年度から「住宅設計の考え方」を読み解くと題し、連続講座を開催、今年度も5月から第二期として全7回の講座が開催される。

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