泉幸甫建築研究所 建築家 泉幸甫
5-東南アジアの歩き方
バリへの旅
バリへ行ったのは1990年。もう33年も前のことだからバリも随分変わったと思う。
しかし、その頃から有名な観光地であることに変わりはなく、サヌールを始めとして海岸沿いには世界的なリゾートホテルが軒を並べていた。
この年になってくると、AMANのような至れり尽くせりの高級ホテルで贅沢にくつろぐのも悪くはないかも、と思うこともあるが、そのようなホテルでの滞在は消費以外の何ものでもない。
視野を広げるには、その土地の風土や生活、住宅、自然を直接見て体験したほうがいい。
バリは小さな火山島。観光地化した市街地を除けば、アグン山という富士山のような形をした山や、キンタマーニという声に出すには少々憚られる山が島の北側にあり、その南斜面は深い森と、農家の棚田に覆われている。
バリが素晴らしいのはその深い森と、それに覆われた点在するいくつもの小さな集落にある。
深い森と棚田に覆われたバリ島
そのような森の中の集落には、伝統的な建物をリノベし、ホテルとして部屋を貸しているところがある。今でいう民泊の走りのようなものだが、そのようなところに泊まると、海辺のリゾートとは違った体験ができる。
建物はリゾートホテルのように近代的な建物ではなく、バリの伝統的な建物。集落の中にあるから、村人の生活があり、周りはジャングルや棚田。民族服を着て、頭の上に荷物を載せて歩く人々。村の男達は闘鶏を楽しんでいたりする。時にはガムラン音楽の練習中の音が遠くに聞こえる。
朝の目覚めは、朝ぼらけの中、鳥たちの小さなさえずりがぼんやりと聞こえるうちに、突然大きな甲高い大きな声の鳥がけたたましい声を上げると、日が明けろとばかりに一斉に鳥たちの大合唱が始まり、その声で完全に目を覚ます。しかし外はまだ薄暗い。縁どられた窓の向こうに椰子の木のシルエットが浮かび上がる。周りはジャングル。いろんな種類の鳥の合奏を聞きながらこれまでに経験したことがない、自然の営みの中に身を投げ出しているようだ。
泊まったのはバリの山中にある芸能が盛んなウブド郡のプリアタン村(Desa Peliatan)のマンダラ・バンガローハウスMandala Bungalows。この民宿は、バリ島でも1、2を競う舞踏団の家族がやっていて、以前この一家を中心とする舞踏団は日本の国立劇場でも公演している。宗教学者の中沢新一、先日亡くなった坂本龍一もここに滞在している。坂本龍一はここでのガムラン音楽の体験が、その後「戦場のクリスマス」につながったのか。僕たちは彼が泊まっていた部屋を「教授の間」と呼んでいた。
また僕が泊まった時には、薬草を研究している若者がやはり投宿していた。バリの山中で薬になる植物を採集しているとのことで、深いジャングルの中にはまだ誰も知らない薬草が眠っているのかもしれない。という具合に、面白い人が集まるバンガローだ。
このホテルを拠点にして、バリの集落や寺院、ケチャやバロン、レゴンなどの舞踏を見て回った。もちろんそれらもすごいのだが、最も記憶に残っているのは、たまたま道で出会った儀礼の行列だったり、路地での男たちの闘鶏、朝ぼらけの中の鳥の声、迷い込んだ奥庭の祠・・・それらは観光のために用意されたものではない、たまたま出会ったその土地の風景や風土、日々の生活だった。それはバリに限らず、旅先で深い感動を呼び起こすのは、いつもこのような偶然の出会いによるものだ。
プリアタン村のガムラン音楽団
バロンダンス
ケチャ
たまたま通りがかった儀礼の行列
裏通りでは男たちが闘鶏を楽しんでいた
たまたま入り込んだ寺院の奥の人気のない、静寂に包まれた中庭に並ぶ祠
人気の少ない静かな、何と気品にあふれた小道だろう
ネパールへの旅
ネパールへはインドへ行く前だったからかもしれないが、1987年のネパールでの体験は強烈だった。
ネパールの首都カトマンズに夜着いた。空港は農業用倉庫のような粗末な建物で、裸電球がぶら下がって薄暗い中を入国した。しかもバンコックでトランジットして預けた荷物が出てこない。その上、空港職員との話は埒が明かず、初っ端から一撃を食らわされた。
空港からカトマンズ市内への車中から見る夜景は、街灯がなく真暗闇、時々民家のぼーっとした明かりが現れては通り過ぎていく。カトマンズに着いても、建物の中からの光が家の前の道路を照らしているが、やはり街灯がないので、街の景色を全くつかむことができない。あー、そうだ、ここは中世の延長にある街なのか、と思った。1987年とはいえ、近代国家から来た私達にはカトマンズはそう思えたのだ。映画でその様なシーンを見たことがあるが、体の底からの前近代の暗闇の体験だった。
カトマンズの周辺にはカトマンズだけでなく、パタン、バクタプルという歴史的にも貴重な建物が残る街がある。それらの建物はヒンズー教で色取りされ、全く違う世界の人々の精神構造から作られたとしか思えない。これらの建物だけでなく、街全体が宗教都市のようで、宗教色に彩られている。このことは、ネパールだけでなく、近代化される以前の国や町はどこも宗教色が強く、近代化とは宗教色をはぎ取ることから始まるのか、と思わされてしまう。
カトマンズ近郊の古都パタン ダルバール広場(ダルバール広場は王宮前広場の意でカトマンズにも、バクタブルにもある、何処もチベット仏教の寺院が集中している)
カトマンズのダルバール広場
カトマンズからポカラという150キロメートルくらい離れた町へ、往きは飛行機で行った。飛行コースの右にエベレスト山脈を見る旅は素晴らしかった。ジェット機と違って小型のプロペラ機だから高度はそう高くなく、マナスル、アンナプルナ、遠くにエベレスト山を、地球のプレート造山運動で出来た、絶壁に切り立つ山脈の土手っ腹を真横に、壮大な眺めの遊覧飛行だった。
カトマンズ―ポカラの飛行機から見た多分マナスル?
ポカラ上空に着き下を見下ろしたら、滑走路がコンクリートではなく草っ原だった。しかも牛が放牧場のように草を食んでいる。牛にぶつかりはしないかと気をもむ。しかしここはネパール、牛をよけて着陸するだけのこと、のようだ。
ポカラはエベレスト山脈の中に散在する村々への出発点のような町で、人々はここからまともな道はなさそうだが車で、さらに奥地へは狭い道を徒歩で行く。そういう村人はポカラに出てきて、交易を行う。
そう言えば、かつてこんなに面白い本はないと、興奮して読んだ、明治期にチベットへ密入国した川口慧海(えかい)※もこのポカラから、カイラス山を横に見て、ラサへ向かったのだ。
※川口慧海作 チベット旅行記 明治期に鎖国のチベットに仏教の原典を求め困難を乗り越えて密入国した僧の探検譚の名作。
ポカラの建物 組積造の影響が強く残る木造の柱・梁
ポカラの子供たち 真ん中の子はモナリザ?
ポカラのイケメン
ポカラ近郊の村
ポカラ近郊の村の何と楕円形の建物
往きはエベレスト山脈の絶景を堪能した飛行だったが、カトマンズへの還りは、早朝、夜明け前に車で出発。直線距離ではたったの150キロしかないが、クネクネと曲がる渓谷に沿った悪路を行くわけだから、その何倍もあり、夜明け前に出ないとその日のうちにカトマンズに帰ることができないのだ。
カトマンズ―ポカラ間は日本で言えば国道1号線に当たるメイン道路のようなものだろうが、ガタガタの道だった。車は空中に飛び上がっては、いきなりガクンと地面に叩き付けられる。後ろの席は胃が飛び出してしまうのではないかと思うほどに、揺すられた。追い越すバスにはたくさんの人々が詰め込まれ、車体の上にも人がぎっしり。
途中、このガタガタ道沿いのバザールで昼食をとった。周りのネパール人たちが皿に盛られた食べ物を右手で器用に混ぜながら取って食べているのを横に見ながら、僕たちはフォークで食べていたが、突然、目の前にいた子供がテーブルの上に上がり、こっちを向いて何とおしっこをジョーと始めた。僕らはあっけにとられていたが、周りのネパール人は別段慌てる風でもない。
ネパールでは一事が万事、僕らが不潔に思うことでも、彼らにとっては何でもないことのようだ。
しかしこのような帰り道だったが、全くの異文化と言ってもいいネパールの人々の生の生活、感覚を見ることができ、自分の知らない新しい体験で、それはそれで楽しい帰路だった。往きもよいよい、還りもよいよいと言っていいだろう。
テーブルでおしっこをした子 お母さんもケロッとしてる
カトマンズの絨毯屋でカーペットを物色中、トイレに行ったが、やはり何とも汚い。トイレはホテル以外どこも信じがたいほど汚い!靴の裏にウンチが付きそうだし、トイレの扉の取っ手もベタベタしてそう。
しかし、カーペットの商談も佳境に入る頃、紅茶が出てきた。出てきたのは、先のトイレの奥の方からで、ちょっと嫌だなーと思いながらも飲んでみたら、この紅茶が何と美味しいこと。日本では味わうことのできないダージリンのミルクティーだった。
旅行の途中、連れ合いが激しい下痢で動けなくなってしまった。恐れていたことが起こった。異国での旅行中の病気は大変。病院に連れて行ったが内科の扉の前には、山の奥から出てきたと思しき大勢の人々が我先に診療を受けたくて、ワッと無秩序にたむろしている。
この状態で果たして診てもらえるだろうかと心配していたら、そこは日本の援助で出来た病院だったからなのか、旅行者だったからかわからないが、運よく診てもらえ、薬の処方箋をもらった。しかし処方箋をもらっても、薬屋を探すのがまた大変。緑の十字があるわけでもなく、探しに探して見つけた薬屋はパチンコの景品引き換え場のような、小さな出し入れ口しかない、いかがわしい感じのところだった。でもこの薬のおかげでじきに治った。
実は僕もインドで大変苦しい思いをしたことがある。このネパールの経験から、旅行前に医院で下痢の症状に対応した薬を処方してもらって行った。軽い下痢から、高熱を伴う下痢までの三段階の薬を。その旅は大勢で行ったこともあるが、僕を始め、この薬を求める人が多く、大人気だった。
その日はアグラにある、かの有名なタージマハールを見に行くことになっていたが、その道中から熱もあり、悪寒で震え始めた。へとへとになってタージマハールの大きな基壇に上がったころには立っていられずに、建物を見上げるようにぐったりと寝そべってしまった。連れの者たちは、タージマハールの建物の中へ見学に行ったが、彼らが帰ってきた頃には意識は朦朧としていて、後で聞いたのだが、僕の体には沢山のハエがたかっていたそうだ。
ホテルまでどうやって帰ったか覚えていない。しかし持って行った薬を飲んだら、その日のうちに何と回復してしまった。後で下痢の原因を考えたら、オンザロックの氷だった。
インドへ旅すると人間が大きくなると言われるが、成程このような体験をすると、人間はどうにかなるもんだと、そのように思えることによるのか。
カンボジアへの旅
カンボジアへの旅を思いたったのは朝方の5時頃だった。「ラジオ深夜便」というラジオ番組を眠気覚ましに小さくかけていたら、何やら面白い話をしているようで、だんだんと聞き入ってしまった。
50歳後半、連日連夜、遅くまで博士論文と格闘していた。設計の仕事をしながら、60歳近い年齢で、睡眠時間2~3時間の日々を数カ月続けていた。人生の中で努力した数本の指の一つ入る。博士論文は難易度の高い審査があり、それを潜り抜けない限りその学位を得ることができない。
そのような悪戦苦闘の中で聞いたのが「ラジオ深夜便」で、森本喜久男さんというカンボジアの伝統的シルクの復興に尽くされた方の、訥々とした語りがラジオから聞こえてきて、この人凄い!思った。
カンボジアの内戦は悲惨だった。その戦禍でカンボジアのシルクの伝統が途絶えてしまったが、その復興に貢献された方だ。まずは伝統的養蚕の再開のために、カンボジアの森で蚕を探し出し、蚕の餌になる桑畑を作り、養蚕し、糸を作り、その絹織物の伝統的技術を持った数少ない年寄りを探し出し、その若手の後継者も育て、さらに、人々が働きやすいよう福利厚生を整え、子供たちのために学校も作り、そして皆を食わせるために作ったシルクの販売ルートを作り出す・・・というように伝統的カンボジアシルクの生産を一からすべてを再構築された。
それは具体的には養蚕をめぐる、「一つの世界を持った村」を作ることにつながり、数々の問題を解決していかなければならなかった。
そのアプローチはその頃、僕の研究テーマでもあった「多様化手法」に関連することもあり、聞き入ってしまったのだと思う。聞いていて、この人凄い!すぐにカンボジアに行って会ってみたい、と思ったが、その時は越えなければならない論文の作成中。これをなし終えることができたら、自分へのご褒美に会いに行くことにしよう、と心に決めた。
無事に博士の学位を得ることができ、次の年に森本喜久雄さんに会いに行くことができた。
カンボジアに行ったのだから勿論アンコールワットなどの遺跡群も見たが、何といっても森本さんに会い、彼の村を見学することが第一目的だった。目的地に行く道もネパールの道に引けを取らずガタガタ、地雷を掘り出した後かのような穴だらけの道だった。
お会いした森本さんは穏やかで、多くを語らない、語るのは事実のみ。「村を見ればわかるでしょ、それ以上でもないし、以下でもないんです」ということか。しかしそれは不気味なほどに夢をもってそれを成す人特有の、虚飾のない芯の強さを感じた。アフガンで亡くなった中村哲さんも、お会いすればやはり同じような印象を受けたに違いない。
カンボジアの心地よい風が吹き抜ける伝統的な家屋の屋根の下、森本さんとお会いでき、至福のひと時を過ごすことができた。そして村を見学するだけで、多くの刺激を受けた
2017年に亡くなられた。ガンだったが、ガンは病気でなく人間の老化の一つとしてとらえていたとか。森本さんが作った村には絹織物づくりで百数十人の人が暮らし、森本さんと村人との絆は固いものだったらしい。
森本さんのことをもっと知りたいと思われる方は、これ以上私がとやかく森本さんのことを書くよりも、下に紹介した森本さんの著作※を読んでいただきたい。
※森本喜久男の本 自由に生きていいんだよ いのちの樹
数少なくなったカンボジアシルクの伝統を受け継ぐおばぁさんとお弟子さん
アンコールワットのあるシエムリアプの工房
仕事場に子供を連れてくるのはOK 仕事場にアットホームな空気が流れている
デザインしている人の足元にも子供が これこそ働き方改革だ
どうも仕事の打ち合わせ中のようだ
森本さんの村「伝統の村」では、たまたま上棟式をやっていた。下の写真が上棟のお祈り
伝統の森の中に建てるこの人の住まいらしい
森本喜久男さんと
お昼を御馳走になった 左から4番目は日本人のタイル屋の横井敦彦さん 6番目が森本喜久男さん
森本さんの住まい
森本さんの住まいの憩いの場
森本さんの住まい
このシリーズは全6階で世界を回る予定でしたが、なかなか先に進まず、残りの回もアジアにします。スポンサーのご厚意によりヨーロッパ、アフリカ、アメリカは次のシリーズに予定しています。
執筆者のご紹介
物はそれ自体で存在するのではない。それを取り巻く物たちとの関係性によって、物はいかようにも変化する。建築を構成するさまざまな物も同じように、それだけで存在するのではなく、その関係性によって、そのものの見え方、意味、機能は変化する。
だから、建築設計という行為は物自体を設計するのではなく、さまざまな物の関係性を設計すると言ってもいい。
そして、その関係性が自然で、バランスがよく、適切さを追求することができたときに、いい建物が生まれ、さらに建物の品性を生む。
しかし、それには決定的答えがあるわけではない。際限のない、追及があるのみ。
そんなことを思いながら設計という仕事を続けています。
公式WEBサイト 泉幸甫建築研究所
略歴
- 1947年、熊本県生まれ
- 1973年、日本大学大学院修士課程修了、千葉大学大学院博士課程を修了し博士(工学)
1994~2007年、日本大学非常勤講師、2004~2006年、東京都立大学非常勤講師、2008年から日本大学研究所教授、2019年からは日本大学客員教授。2008年には2013年~16年、NPO木の建築フォラムが主催する「木の建築賞」審査委員長も歴任した。
主な受賞歴は「平塚の家」で1987年神奈川県建築コンクール優秀賞受賞、「Apartment 傳(でん)」で1999年東京建築賞最優秀賞受賞、2000年に日本仕上学会の学会作品賞・材料設計の追求に対する10周年記念賞、「Apartment 鶉(じゅん)」で2004年日本建築学会作品選奨受賞、「草加せんべいの庭」で2009年草加市町並み景観賞受賞、「桑名の家」で2012年三重県建築賞田村賞受賞。2014年には校長を務める「家づくり学校」が日本建築学会教育賞を受賞している。
主な著書は、作品集「建築家の心象風景1 泉幸甫」(風土社)、建築家が作る理想のマンション(講談社)、共著「実践的 家づくり学校 自分だけの武器を持て」(彰国社)、共著「日本の住宅をデザインする方法」(x-knowledge)、共著「住宅作家になるためのノート」(彰国社)。2021年2月には大作「住宅設計の考え方」(彰国社)を発刊、同書の発刊と合わせ、昨年度から「住宅設計の考え方」を読み解くと題し、連続講座を開催、今年度も5月から第二期として全7回の講座が開催される。